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第27話

相田は仕込みの手を止めると、軽く楓の頭を小突いてやった。 楓ほどの経験はないが、相田にもお付き合いをしている女性がいる。 もちろん彼女にはかつて付き合っていた男性がいて、相田に完全に惚れてくれるまでは我慢の連続だった。 「僕自身の経験から言ったまでだよ。ほら、これ食べて元気出して」 「うお!卵丼だ、いいの!?」 「いいよ。今日の賄いにって考えてたんだけど、省吾君は休みだからね」 「なんだ、省吾のためのメシだったのかよ」とまた不貞腐れる楓だが、一口頬張るごとに「旨ぇ!」と連発している。 料理人にとって、食べてくれる人に「美味しい」と言ってもらえる以上のご褒美はなく、相田はそんな楓を見つめ、頬を緩めた。 結局省吾が銀座での用事を終えたのは、午後5時を少し回った頃だった。 案外早くできるものだなと思うと同時に、この時間なら急げばBARでのステージに間に合うだろうとも考える。 だが、もし楓が来ていたら、自分を見てどんな顔をするのだろう。 出かける前に見た彼は、哀しそうな顔をしていた。 できることなら墓参りになど行かないでくれとも言っていた。 なのに省吾はどうしても峰島の墓前で「もう来ない」と言いたいがために、楓の願いを振り切って墓参りに出かけてきてしまった。 「今日は帰るか……」 片手に持った包みを楓に渡せるのは、いつになるのだろう。 否、そもそも楓は自分を好きでいてくれるのだろうか。 もし「お前なんて嫌いだ」と言われたら、この包みは相田経由で渡してもらうことにしよう。 省吾が帰宅したのは、それから1時間後のことだった。 アーケードで出来合いの弁当を買い求め、電気を点けてもどこか薄暗い部屋の内側に入る。 こうして外から帰宅したら、寝室に置いているアップライトピアノを見つめるのが、省吾の習慣だ。 今日もその習慣を実行し、畳の上に鎮座するピアノを眺める。 艶やかなそれの蓋を開けて弾いてみたいが、許されるだろうか。 楽譜も何もないが、大抵の曲なら暗譜できているので、問題ない。 省吾がそんな誘惑に負けてピアノの蓋を開けようとしたその時、不意にきな臭さが鼻腔を刺激した。 この匂いは、何かが焼けている匂いで、近所でバーベキューでもしているのかもしれない。 省吾はその匂いをやり過ごし、ピアノの蓋を完全に開けて鍵盤を一つだけ叩いた。 「やっぱ、音デカイな……」 BARはそれなりの広さと人のざわめきがあるのであまり音量を感じないが、静かな場所で音を鳴らすと、やたらと大きく聞こえる。

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