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第3話

「マスター『秒速5センチメートル』って映画見たことある?」 「残念ながら見ていないね。面白いの?」  グラスを拭きながらマスターは優しい笑顔で返事をくれた。あとくされのない関係を求める日よりも、こうしてマスターと話をしながら静かに飲む夜のほうが多い。探り合いや駆け引きが楽しい頃もあったが最近はそれも飽きた。でも一人自宅で酒を飲むのは寂しすぎる。そういう夜はこの店にくるのが一番だ。  「BRIGHT」と印刷されたマッチを手にとる。煙草は吸わないがこういう紙マッチは好きだ。 「もうマッチはやめようかなって。煙草吸う人が減ってきているし、電子煙草だっけ?ああいうのがでてきているしね」 「携帯があるから家電や公衆電話が少なくなっているのと同じだね」 「新しいものが一つ生まれると古いものが一つ消えていく。おかわりは?」 「あ、お願いします」  マスターは新しいグラスにボンベイサファイヤを注いだ。他のジンは5種類程度のボタニカルを添加しているのにボンベイサファイヤは10種類。香りとフレイバーが違う……らしい。あくまでもマスターの受け売りで俺は味の違いがよくわかっていない。 「さっきの映画。初恋を忘れられない主人公の話なんですよ。やっぱり男のほうが未練たらしいのかな」 「さあ、どうだろう。未練か……きっとそれは忘れたくない恋なんだろうね。届かなかった想いを綺麗に消してしまえたほうが楽なのに。苦しくて未練や後悔ばかりが積み重なるのに忘れたくない。きっとそんな恋なんだよ」 「忘れたくない……か」  高校を卒業して10年。喬は年賀状をよこすだけで他に連絡はなかった。あの日、走って逃げた俺のことをどう捉えただろう。まだ子供だった俺は起きていること、自分の気持ち、卒業のやるせなさでグチャグチャだった。だから逃げ出した……そしてそれはいまだに後悔と未練の火種になり燻り続けている。 「俺の知っている人は12年も片思いしていてね、ようやく気持ちを伝えて両想いになった。そういう人もいるからね。未練を断ち切るにはダメor成就の二つしか方法がない。もしくは新しい恋で上書きするかね。一志君はどうしたいのかな?」 「え?……なんで俺に聞くんですか」 「未練を抱えていますって顔だから。未練を抱えていない人は未練を議題にしないよ?」 「そうですね……まったくだ」  卒業して10年経った。少しだけ大人になれた気がする今なら喬に伝えることができるだろうか。あの頃好きでした。もしかしたら今もまだ好きかもしれないことを。 「俺はまだ10年です」 「10年?長いね。10年で終わりにするのか、この先また10年同じ想いを抱えていくのか。どっちかを選んでみたら?どうしようかな、そう考えると答えはでないけど二択にすると意外と簡単なんだ」 「マスター悩み相談の天才ですね」 「ふふふ……経験豊かって言って欲しいな」  マスターはグラスを軽く合わせた。チリンとクリスタルが鳴る。  そうだね。マスターの言う通り、二択なら答えがでる。叶わぬ恋を抱えて燻るのか、新しい恋を手に入れるのか……答えは簡単だった。

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