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紫のゆかり

「戻ったぞ」 「ただいま帰りました」 アマテラスが入り口で柊に帰宅を告げた。 すると、タタタと小刻みに板の上を駆ける音がして、柊が満面の笑みで迎えてくれた。 「主様!幸様!おかえりなさいませ!随分と長い散策でしたね」 「ああ、幸を案内していなもんでな」 「左様でございましたか。いかがでしたか?幸様」 「あ、うん。楽しかった。アマテラス様…あの、ま、また誘って頂きたいです…」 二人の進展を願ってこれでもかと精一杯張り切ってくれた柊を安心させるためそう言った。 目の端で、柊は目を輝かせて喜んでいたのが分かった。 「ああ、俺もまた共に出かけたいと思う」 すぐに離れてしまったが、頭に重みと温かみを感じて少しほっとする。 「すぐお茶をお入れ致します。幸様もいつもの縁側でお待ち下さいませ」 「うん、ありがとう柊」 「行こうか」 「は、はい…」 アマテラスに対しての幸のぎこちなさが、散策で何かあったのだと柊を誤解させているようで、一人ほくそ笑んでいる。 『何か』あったと言えば、あったというべきだろう。 しかしそれは、幸と柊の『何か』は同一ではない。 幸にもそれがすぐに理解できた。 「幸隣に座っても良いか?」 「そ、そのようなことを申されなくとも、もちろんでございます」 幸は狼狽えながら返事をする。 アマテラスがいるだけで、さっきの話が頭の中を駆け巡って居た堪れなくなる。 「そう構えるな。いつも通りで頼む。いや、幸はいつもそんな様子だったか?ハハハ」 「やはり、まだ慣れなくて……緊張してしまいます」 「幸にはまだ話さねばならんことがなくさんある。まだ十分に現状を理解できていないだろうが、許してくれ」 「はい…何でございましょうか?」 「幼い頃化け物が見えると言ったな?」 アマテラスはそう切り出した。 やはり過去の脅威と向き合わなくてはならないと言うことだと感じ、幸の顔つきも真剣なものになった。 「あれは(あやかし)やら(あやかし)ものと言ったりする。人間は妖怪と言ったりもするか?まあ、名前はどうでもいい。 そいつらは悪さをしない小物いるが、中には危険なものもいる。実は、一概に危険だとは言えん存在だ。人間と同じだ。全ての人間が善人とは限らんだろう?」 「この辺りに漂う(むし)も、無害な妖の類いということですね…?」 「そうだ。柊も妖狐という神気のある狐だ。300年以上生きた狐だけが立派な妖狐と認められるがな。妖狐は徳を積んで行くために修行をする。修行をして徳を積んで行くものを善狐(ぜんこ)、反対に悪さをするものを野狐(やこ)という。このように、幸には見た目では判断できないものもいる。だから決して知らぬものとは口を聞いてはならん。妖狐の詳しい話は柊に聞くといい」 話は主にアマテラスのいる世界――神や妖の住む世界についてのことだった。 話を聞けば聞くほど幸にとって危険が多いことが分かった。 理由は簡単だ。 幸があのイザナミの神気を持っているからだ。 その力を恐れるもの、狙うもの、利用しようとするもの様々な思いが混濁しているという。 「良いか幸、これからは本当の名を口にしてはいけない」 「ど…どうして、です?」 言いにくそうにしかし、有無を言わさない口調でそう言った。 「妖に本当の名を知られるとかなり危険だ。術を使って悪さをする奴もいるからな… これもお前を守るためだ。すまない」 名を捨てろと言われても、心の動揺や恐怖は少なかった。 『幸』ではなくなることで、新しい自分になってアマテラスだけに必要とされる存在として前向きに生きられる気さえした。 「…私のお願いを聞いて頂けますか?」 「嬉しいな。やっと自分の口から望みを言った。幸の願いなら、なんでも聞き届けようではないか」 「私に名前を下さい。新しい名前を、アマテラス様から頂きたいです」 どうか、と深々と頭を下げる。 仕える身なのだから、いっそのこと名前も付けてもらって、アマテラスのものになりたかった。 伴侶にするなどと言われたけれど、幸の中では自分から返事をすることが躊躇われるほどアマテラスが雲の上の存在で、どうせならこの機会に無理矢理にでも俺のものだとこじつけてこの身を奪って欲しいと思った。 幸には、尊すぎる相手で、それについて返事をすること自体が恐れ多過ぎる。 「幸は俺に特別に呼んでくれる名をくれた。だから、俺もそんな名前を付けられることが嬉しい」 「私も、これからアマテラス様に特別な名前で読んで頂けるなんて光栄です」 「幸…いや、(むらさき)。今日からお互いに特別な名前で呼び合おう」 「紫……光様、素敵なお名前をありがとうございます。これから大切にします」 光と紫――いつかの恋物語のようで余計に頬が熱くなる。 アマテラスはそれを知ってか知らずかこの名前を呼んだ。 まるで、結ばれることを約束されているかのように。 そんな考えに至った自分も恥ずかしいし、もしそうだとしても恐れ多くて参ってしまう。 幸はどんな顔をすれば良いかまるで分からなかった。 「紫は一番高貴な色だ。この俺の伴侶になろう美しいお前にはピッタリだ」 歯の浮くような台詞を吐くと、顎を捕えられ幸はあっという間に唇を吸われてしまった。

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