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母なる神気
平穏とは、実にあっさりと崩れ去るものである。
いつ何時現れるかも分からないそれは、誰も予知することはできない。
「時に幸よ、最近気になっていたのだが、右手首の赤い糸は何だ」
それはいつもと変わらない昼下がりのように思えた。
幸の好きな庭を好きな場所でぼんやりと眺めている時間。
今日は珍しく隣にはアマテラスがいた。
「これですか?細い糸みたいですがこれでもお守りなんですよ」
「ほう、どれどれ……」
これにまつわる身の上話を聞かせる前に、アマテラスの前にその腕を差し出した。
「ん、なんだ。この糸のようなもの動いておるぞ」
「えっ?そんなはずはございませんよ」
手首を見ると確かに小刻みに震えている。
まるで強力な力に耐えているかのように、音もなく震えて今すぐにでも切れてしまいそうだった。
「いったい何な…」
プツン
アマテラスがそれに触れた瞬間、張り詰めた糸が切れるような音がした。
途端、どこからともなく突風が二人を飲み込み駆け抜けていった。
「あっ!」と言った幸が早かったか、突風が早かったか分からないうちに手首からその糸は滑り落ちた。
すると突然アマテラスが苦しみだした。
「この匂いと神気の濃さは…急にな、何なのだ。それに母上の神気!!」
「アマテラス様…?」
「お前!何者だ!!これは糸ではない……母上の髪だ!!」
「えっ?えっ?」
アマテラスのただならぬ雰囲気と自分でもわかる何かの違和感。
身体の中から湧き出てくるような感じがする。
ぞわぞわして落ち着かない。
「…っくそ、俺が神気に中てられるなど…くっ!」
「あ、アマテラス様!?一体どういうことですか!?」
「寄るな!……それ以上寄るでない。お前に何するか分からん」
全く状況が掴めずひとり混乱している時に、空から黒い影が舞い降りた。
幸の目に映ったのは、背に真っ黒い大きな翼を持つ人だった。
正確には人ではないだろうが、人の形をしている。
髪も目も羽もすべてがカラスのように真っ黒だった。
「アマテラス様!この強い神気、何事でございますか!?」
「ヤタガラス!こいつの近くに寄るな!中てられるぞ!」
「…!この神気!イザナミ様の…!まさか貴様がイザナミ様を殺めたのか!!」
「一体何のことを仰っているのか、私 には分かりません…っ!」
訳も分からぬうちに責めるものが二人に増え、泣きそうになる。
でも、熱い息を零すアマテラスが心配で堪らなかった。
どうにかしてやりたいのに近づくことすらできず、もどかしく感じる。
神気、イザナミ様、殺めた、ヤタガラス…
聞きたいこと知りたいことだらけなのに、答えてくれる人は誰もいなかった。
「このぉっ!白を切るなよ!?」
「黙れヤタガラス。迂闊 に近づくな」
「ですが…っ!」
「黙れと言っている。二度も言わせるな」
何か言いたげにアマテラスを見ていたが、諦めたように静かに口を噤んだ。
そして、その不満は視線で幸へと送られた。
敵意むき出しのヤタガラスと言われる鳥人間、そしてほんの少し前まで優しかったアマテラスの冷たい目――
誰も助けてはくれない、誰も自分を受け入れてくれないと分かった時、目の前が真っ暗になった。
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