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第4話 春のめにめに
「牟田くーん!」
呼ばれて振り返ると、同期の野球サークル仲間、女木さんが近寄ってきてるところだった。
「牟田くん、足速いねえ。追い付けないかと思いましたよ」
まったく追いつく気がないように見える、ゆったりとしたペースの徒歩だ。
「どうしたの、女木さん。そんなにゆっくりしてるの、珍しいね。いつも小走りなのに」
「あのね、野球するんだよ」
「?」
なにを言われたかわからず首をかしげた俺に、女木さんは斜めにかけているサコッシュからボールを取り出してみせた。
「牟田くんが、エースだよ!」
「はあ!? 俺、入部したばっかりなんですけど!?」
「全員が、君を待っていた!」
いやいや、女木さんは、俺より入部が遅い。1ミリも待っていやしない。
そんなことは知らぬふりで、女木さんは俺に白球を押し付けた。
「牟田くん」
「はい」
いやに真面目な女木さんの声に、思わずかしこまった返事をしてしまった。
「みなみを甲子園に連れていって」
「はい?」
「君のみなみを、しかるべき甲子園まで連れて行ってあげて」
はい?
「ただいまー」
「おかえり、春樹。お腹すいてる?」
「いや、べつに。昼飯食ってそのまま帰ってきたし」
「そうなの? なんだか気の抜けた声だったから」
拓斗にはなにもかもお見通しだ。
俺が大学で基礎講習を受けている間に、拓斗は飛び級に向けた試験勉強をしている。
俺達が通う大学では、単位の取得は完全に自由に設定できる。
普通は大学一年は一般教養という名の御仕着せの講義が主らしいのだが、うちには一般教養というようなくくりはない。受けたい講義を好きに受けられるから、一年次で卒論ゼミに参加することも可能だ。
可能だけど、かなりの学力を必要とされるから無謀に挑戦する学生はそうそういないらしい。と、いうことは、たまにはいるということで。
その猛者というのが、拓斗だ。基本的な数学だとか英語だとかの講義は、講師から出される課題と試験に合格すれば単位をもらえる。入学から一か月、拓斗は課された試練に次々と合格している。
猛者の噂はキャンパス中に広がり、拓斗の名前はあっという間に知れ渡った。だが、大学に通う日数が少ないせいで、拓斗の姿を知っている者は少ない。しこうして拓斗には二つ名がついた。
『幻の探究者』。
学校中が、拓斗の飛び級卒業を今か今かと待ち望んでいた。
「なんで、そんなに急いで勉強してるの」
机に向かっている拓斗に聞いてみる。ポケットに入れっぱなしのボールをころころ転がす。
「べつに急いでないよ。出来ることからこなしてるだけ」
「普通は出来ないだろ、基本の講義を受けずに卒論ゼミなんて」
「やれば出来るよ」
「俺には出来ない」
拓斗はペンを置いてこちらを向くと、優しく微笑んだ。
「君はゆっくりキャンパスライフを楽しんで」
「拓斗は楽しまないのか?」
「僕が勉強好きなの、春樹は知ってるでしょ。これが僕の青春の1ページだよ」
拓斗のこの笑顔は本物だ。嘘を吐いてはいない。ただ、真実を語ってもいない。
「はーるき。どうしたの、不機嫌?」
「拓斗は何になりたいんだ」
「何にって?」
「将来」
「何度も言ってるでしょ、専業主夫だよ」
「専業主夫になるのに、大学院卒の資格はいらないだろ」
拓斗は困ったように眉根を寄せて笑ってみせる。
「持っていて邪魔になるものじゃないよ」
「使えよ。修士でも博士でも好きなのを取って、好きなだけ活用しろよ」
「春樹、何言ってるの。僕はなにも変わったことをするつもりはないんだよ」
「しろよ。とっとと単位取ってしまって、大学院もスキップして、天文学者になれよ」
「…………」
「行くんだろ、世界一の天文台に」
拓斗は笑顔を崩すことなく、机のノートに視線を戻す。
「いつか、いっしょに行こうね。チリの天文台がギネス世界一になったんだって。きっと素敵な星が見られるよ」
「一人で行けよ」
「何言ってるの」
「スイスに行けよ」
拓斗が弾かれたかのように顔を上げた。
「呼ばれてるんだろ、スイスの大学に」
「……なんで、知ってるの」
「人から聞いた。高校時代に書いた論文が認められたって。徹夜して英語で書いてたやつだよな。頑張ってたのが認められたんだ。行きたいんだろ」
拓斗の表情はますます困ったようなものになる。
「知ってるでしょ。僕は春樹なしじゃ生きていけないんだって。春樹がいないところに行くなんて……」
「俺はここにいる」
「うん。僕の側にね」
「お前の側じゃない。俺は、地球にいるんだ。お前だって地球にいる。お前が好きな銀河系の向こうの世界にいるんじゃない。この地球上、どこにいたって、俺はお前のすぐ隣にいるよ」
「そんなの、詭弁って言うんだよ」
「なんて言ってもいい。拓斗は好きなところに行くんだ。どれだけ距離が離れたって、それがなんだって言うんだ。一光年も離れたりしないんだぞ」
「春樹はむちゃくちゃ言うなあ」
「むちゃくちゃなのは拓斗だろ。好きなことを我慢するなよ」
「僕が一番好きなのは春樹だ」
「知ってるよ」
「僕はいつでも春樹の側にいたいんだ」
「知ってる」
「でも、行きたいんだ。もっと宇宙のことを知りたい」
「知ってるよ」
俯いた拓斗の表情は見えない。
「春樹は、僕がいなくても平気なの」
「平気じゃないよ。でも、やりたいことを我慢してる拓斗を見てるのは、もっと平気じゃない」
拓斗は椅子からずるずると滑り落ちると、俺の手を取った。
「二年が留学の期限なんだ」
「うん」
「二年間も、僕は日本を離れる決意なんか出来ない」
「うん」
「でも、行きたいんだ」
「俺はここにいるよ。ずっとここにいる。二年だって、五年だって、十年だって、拓斗が帰るまでここにいるよ」
拓斗はずっと俯いていて、どんな表情を浮かべているのか見ることは出来ない。だけど俺は知ってる。悲しそうに微笑んでるんだ。
「春樹は変わらないなあ」
「変わらないよ。だから……」
「少し、考えさせて」
そう言って俺の手を離した拓斗を見るのが辛くて、俺は部屋を出た。
「牟田くん、遅いぞ」
「うん」
野球サークルのメンツが集まっている河川敷のグランドに着くと、女木さんが駆け寄って来た。
「元気がないね、野球出来る?」
「出来るよ。俺には野球くらいしか出来ないんだから」
「じゃあ、ボール貸して」
ポケットから出したボールを女木さんに渡すと、彼女は思いきり空に向かって放り投げた。
「宇宙の果てまで飛んで行けー!」
驚いて女木さんを見ると、満足げに鼻息を吐いていた。
「あのボールは宮城くんです」
「え?」
「ほら、もう帰って来たよ」
きらきらと陽光に包まれた白球が真っ直ぐに戻ってくる。俺のところに戻ってくる。
「ピッチャーフライだよ!」
まっ白なボールに手を伸ばす。俺を目指してボールが戻ってくる。広げた両手の中に、ボールがするりと落ちて来た。
「いってえ。素手で取るボールって、こんなに痛かったっけ」
「痛かったら、ボールを投げるのが嫌になりますか」
「いや、俺はどんな時でもボールを投げるよ」
「よし! じゃあ、野球をしましょう。みんな牟田くんを待ってたんだよ」
女木さんに背中を叩かれた。
「ありがとう、女木さん。拓斗の留学の話、教えてくれて」
「どういたしまして。お礼は学食のビッグカツカレーでいいよ」
思わず噴き出す。俺でも手こずる大盛メニューを、きっとこの女傑なら平らげるだろう。
女木さんはまた俺の背中を叩く。
「めそめそしないで、いい球投げてくださいよ」
「おう!」
俺の大切な白球。どこまでも遠くまで、投げてやるさ。
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