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社会人編 第5話 ー蒼編ー
街灯も疎 らな、暗い道を歩いていた。四歳の光の手を引いて、保育園から自宅まで、たった二百メートルの道のり。突然発情期はやってきた。発情期の間は立つことも難しく、コンクリートの歩道に膝をついた。
「ママ、苦しいの?」
光がしゃがんで、心配そうに蒼の顔を覗き込む。住んでいるアパートが見える位置だった。
「大丈夫……すぐ良くなるからね」
二、三回呼吸を整えると、立ち上がり、力を振り絞って歩き出した。
アパートの一階角部屋。鍵を開け、光を先に部屋に入れると、背後から蒼を呼ぶ声がした。その声に鳥肌が立つ。
咄嗟に扉を外から閉める。
「沢圦。発情してて辛いんだろ? ベータの俺でも匂いでおかしくなりそうだよ」
忘れたくても忘れられない、美術部の顧問。大切な人とタイトルをつけた絵を、黒く塗りつぶした男。ベータなのに執拗にオメガの生徒を狙い、一度抱くまでつきまとう、凶悪なストーカー。何故居場所がバレてしまったのだろうか。
「子供に何かされたくなかったら、言うこと聞けよ」
初めは暗闇で見えなかったが、目が慣れてくると、右手にナイフを握っているのがハッキリわかった。
玄関から離れ、場所を少し変えようと切り出そうとしたところだった。
「ママ? どうしたの?」
なかなか入ってこない蒼に、玄関扉を開けて、中から光が顔をのぞかせた。男はニヤリと笑ってナイフを持ったまま、光の方へと駆け出した。
「光! 今すぐ閉めて鍵かけて!」
光は初めて聞いた蒼の大声に驚き、動けないでいた。
蒼は急いで光を部屋の中に押し込んで、扉を閉めた。同時に右脇腹に味わったことがない痛みが走った。
「うっ……」
蒼はその場で崩れ落ちた。
美術部の顧問は周りを見渡し、目撃者がいないことを確かめると走り去った。
静けさが訪れた。
脇腹からは止め処なく血が流れていた。左手で押さえても、止まることなく、手を赤く染めた。
光が遠慮がちに扉を開く。血塗れの蒼を見ると、堰を切ったように泣き出した。
「ママ! ママ! わぁぁぁぁぁぁぁん!!」
泣きじゃくる光の声と、その声に気づいて部屋から出てきた逆側の角部屋に住む大家さんの悲鳴が木霊した。
僕はこのまま、死んでしまうのだろうか……。
ーー紘兄……最期に一度会いたい。会いたかったよ……。
ごめんね。何も言わずに引っ越してしまって。両親は修復不能なほど不仲で、文化祭の日、帰宅した自分に突然母親が「蒼、今から出て行くわよ……。荷物はまとめておいたから」とボストンバッグを一つ手渡され、生まれたときから住んでいた街から遠く遠く離れた場所に引っ越した。
蒼の意識はぷつりと途絶えた。
「蒼ちゃん、ごめんなさい!!本当にごめんなさい!!」
約一ヶ月の入院の後、アパートに戻ると大家さんに謝罪された。刺された時に救急車や警察を手配してくれたのは、大家さんだとあとで聞いた。むしろ感謝しかない。
「あのね……蒼ちゃんが刺された日の数日前、沢圦蒼さんここに住んでますよね? って訪ねて来た人が、はいって答えちゃったの……もしかしたら……そのせいかもって思って」
「そんな……きっと大家さんの気のせいですよ」
「違うの! 蒼ちゃんが入院してるときにも、また同じように訪ねて来た人がいて、まだ二十一歳という若さだったのに、亡くなった……っておばさん芝居打っておいたから!……でもね、もう引っ越した方がいいわ。まだ蒼ちゃんを刺した犯人、見つかってないんでしょ? ……ねぇ蒼ちゃん……光ちゃんのパパ、頼ってもいいんじゃない? ……ダメなの?」
紘兄の優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。
「……はい。頼ってみます」
ーー頼れるわけがない。光を産んだことも、その父親が紘一ということも、一言も伝えていない。
蒼はうっすらと目を開けた。過去の夢と、現在が混濁する。
「お目覚めですか?」
文化祭の後に戻ったような錯覚を覚えた。
あの日、自宅まで送ってくれた、眉目秀麗な優斗の笑顔が、そこにあった。
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