29 / 30

エピローグ

「あ、まずい。こんな時間だ」  紘一は壁の掛時計を確認すると、食後に飲んでいたコーヒーのカップをソーサーに戻し、慌ただしく立ち上がる。 「光も遅刻するなよ」  テーブルの向かいに座ってトーストを齧っていた光に声をかけ、玄関へ急いだ。  蒼と光と三人で暮らすために、奮起して一軒家を買った。高校までは歩いて十五分ほどの距離だ。  紘一は革靴を履くと、蒼から鞄を受け取り、蒼の頬に軽く口づけた。 「行って来ます」 「いってらっしゃい」  見送る蒼のうなじには、番の誓いを印した痕。  表札には『結城』の姓だけが掲げられた。  二人は蒼の母親の旧姓である和泉から、結城に姓を変えた。便宜上、光は卒業まで学校では和泉で過ごすことになったが、結城光も悪くない響きだ、と光が独白していたのを蒼がたまたま聞いていたのは、本人には内緒だ。どうやら光は今の生活に満足しているようだった。  一時間目の数学の授業が終わった後、紘一が廊下を歩いていると、光が忘れ物、と言ってハンカチを差し出した。  紘一と光が一緒にいるのを遠巻きに見ている生徒はいても、声を掛ける勇気がある生徒はいない中、一人突撃してくる生徒がいた。 「結城先生! さっきの授業の件で教えていただきたいことがあるんですけど!」  片桐という生徒だ。双子の片割れだが、一卵性双生児だけあって、いつも兄か弟かの区別がつかない。 「えーと。片桐…………兄の方か!」 「弟の方だろ」  横から光が間髪を入れず口を挟む。 「弟です! 先生、ちゃんと覚えてくださいね!」  片桐弟がへそを曲げたところで、予鈴が鳴った。 「悪い。……もうあまり時間がなさそうだから、次の休み時間に職員室に来てくれるか?」 「わかりました! よろしくお願いします」  片桐の後ろ姿を見送りながら、隣の光に声を掛ける。 「お前よくわかったな」  人間の視覚情報など、いい加減なものだ。 「弟の方は花のような良い匂いがするんだ。兄はそんな匂いしないのに」  「へぇ」  片桐の双子はどちらもオメガだったと記憶している。 「じゃ、オレ行くから」  光は片桐を追いかけると、仲睦まじく一緒に教室へと歩いていった。  紘一は、磨かれたガラス窓から、雲一つない蒼い空を仰ぎ見る。  ーーやり直したい過去などない。  すぐそこに、光り輝く未来が待っているのだから。 ー END ー

ともだちにシェアしよう!