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「何してるんですか」
混み合う朝の電車内に蔓延るノイズを蹴散らすような、よく通った一声だった。
乗客の一部がざわめく。
複数の視線が忙しげに車内を行き来した。
「やめてください」
またも臆することなく続いた声。
閉ざされたドア側からのようだ。
今の声は。
聞き覚えのある声色に、手摺を掴んで立っていた出勤中の浅海は心臓を過剰に波打たせ、ぐるりと周囲を見回した。
知り合い同士で「なに?」「痴漢?」と話している乗客もいれば我関せずに第三者を決め込む者もいる。
通勤ラッシュでひしめき合う人々の向こうを凝視していた浅海の目が、不意に、眼鏡レンズの下で大きく見開かれた。
「まひる君」
次のプラットホームに電車が滑り込む。
降りる駅はまだ先であったが、浅海は強引に人の壁を掻き分け、大切な彼がいるドア付近を必死になって目指した。
速度が落ち、強い揺れを伴って、停車する。
降りていく乗客の中に、中年男性に片腕を掴まれて深く項垂れているスーツ姿の者がいた。
数人の足を踏んでしまった浅海は詫びるのもそこそこに何とか前進すると、乗り降りに些か支障となる、ドア付近にこぞって立つ乗客の隙間から彼の姿を再び視界に捉えた。
「まひる君!」
すでにホームに降り立っていたまひるは全力の呼号にすぐに気がついた。
吹き抜けていく風に指通りのよさそうな黒髪を靡かせ、黒目がちな双眸を頻りに瞬かせ、電車から降りようとしている浅海を見つめた。
まひるの隣には一人の少女が立っていた。
まひると同じ学校の制服を着用した彼女は、俯いて、泣いているようだった。
控え目なマニキュアに彩られた華奢な指がまひるのセーターの裾をきゅっと掴んでいる。
プリーツスカートにはひどくアンバランスな鋭い切れ目がーー
「いってらっしゃい、浅海さん」
まひるはそう言った。
年嵩の女性が急いで連れてきた駅員に項垂れる男が引き渡され、他の目撃者らが説明している中で。
まひるは着ていたセーターを脱ぐと涙する少女の腰にそっと巻いた。
鳴り響く発車ベル。
そしてドアは閉ざされた。
見送られた浅海もまた、窓越しに、みるみる遠ざかるまひるを視界から消え去るまで見送った。
明日から春休みが始まる修了式のことだった。
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