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雛木先輩はかく語りき~1/3~

工藤との逢瀬の予定がない金曜の夜を一人でやりすごせなくて、雛木はふらりと新宿に飲みに来ていた。 といっても、昔常連だったゲイバーに顔を出すわけにはいかない。顔なじみに会えば、今どうしているのかと尋ねられるに決まっている。相手がいないと言えば口説かれるだろうし、さりとて工藤の存在をオープンにする気もないとなれば適当に誤魔化すしかない。これまで恋人がいる時はその存在をオープンにして言い寄る男を断っていただけに、雛木の歯切れの悪い様子を見れば、根掘り葉掘り探られるのは火を見るより明らかだった。 本当は、ものすごく素敵なご主人様に調教して貰っているのだと自慢したい気持ちもあるのだが、プライベートを一切知らない男に縛られたり鞭打たれたりしているという客観的事実は、周囲から見ればからかいや心配の的だろう。 「遊ばれてるんだよ」「目を覚ましなよ」などと言われながら飲むなんて、想像しただけで酒がまずくなる。 かといって、知らない店に一人で入って、口にする情報をセーブしながらバーテンに好きな人と会えないと愚痴を零すのも酔える気がしない。カミングアウト済みの友人もいないではなかったが、この年齢ともなれば皆忙しく、金曜の夜の急な呼び出しに応じてくれるはずもない。 結局一人でいたくない雛木が飲みに行けるのは、工藤との関係を熟知したレイの店くらいしかなかった。 ぞっとするような美しさのレイを旧友だと紹介されたときには、すわ工藤の奴隷かと血の気が引いたが、実はレイも工藤と同様に主人の側の人間らしい。念のため、お二人の間にそういう関係はないんですよねと恐る恐る尋ねたら、二人が揃いも揃って心底嫌そうに「こいつと主従関係になるなんて絶対に御免です」と顔を歪めたのでひとまず安心している。詳しくは尋ねていないが、二人とも同時期に同じ縄師に師事した、いわば同期のような関係らしい。 レイは美しい顔はもちろん、背中の半ばまである長い黒髪と細身の体が相まって、かなり女性的に見える。男性的な美しさのある工藤の奴隷だったら、悔しいがさぞかし絵になるだろうと思ったが、工藤いわく奴隷となることなど想像もつかないレベルで筋金入りのサディストだそうだ。しかも、雛木のような線の細い男には全くそそられないということで、工藤も雛木が一人でレイの店を訪れることを許していた。 最初の頃はやたらと緊張感を煽った重厚な木の扉を、今日は気軽な気持ちで力を込めて引く。工藤と共に訪れる時にはプレイへの緊張と期待で心臓が早鐘を打っているが、ただ飲みに来るにはすっかり馴染んだ居心地のいいバーになっていた。 「こんばんは。お一人ですか?」 特に驚いた表情も歓迎するそぶりも見せず、レイがいつも通りに軽く微笑み挨拶をしてくれる。最初はこのアルカイックスマイルが怖かったが、自分が多少恥ずかしい相談をしても、工藤のことをのろけても、表情を変えずに付き合ってくれるので、今となっては一人が寂しい夜に訪れるバーのマスターとしてはむしろ最適だと思えるようになっていた。 だが、今日は残念なことに先客がいた。落ち着いた店内の雰囲気にはまだ不釣合いといっていい若さの金髪の男が、足つきのビールグラスを手にカウンターで飲んでいる。頭の上でつんつんと剣山を作り、後頭部は数ミリ程度に短く刈り込まれている金髪の横顔は、攻撃性がありすぎて思わず凝視してしまう。鋲つきのライダースジャケットと相まって、可愛らしく言えばやんちゃ感漂う、控えめに言っても絶対に近づきたくないタイプの男だった。 その客がギロリと睨みつけて来たので、半分店内に踏み込んでいた足を迷わず引いて扉を閉めた。邪魔するなと言いたげな様子から察するに、レイを口説いてでもいたのだろう。ここにも雛木の安住の地はないようだった。 諦めて地上への階段を上ろうとしていると、後ろから慌てた声で奇妙な呼び止められ方をした。 「先輩!待ってください!」 先輩?と思わず振り返る。追いかけてきたのはさっきの悪そうな金髪だった。こんな厳つい後輩を持った覚えはないんだが、と首を捻っている間に追いつかれ、いきなり手首を掴まれる。 「レイさんに聞いたっす!先輩だって知らなくてガン飛ばしてすみませんっした」 レイに出身校や職場の話をしたことはないはずだが、と焦っている間に、強い力で手を引かれ、無理矢理レイの店に連れ戻された。 「おかえりなさい」 レイは相変わらず泰然とした微笑を浮かべている。あれよあれよという間に金髪男の隣のスツールに腰掛けられさせ、「先輩、ビールでいいっすか?いいっすよね。俺奢るんで、話聞かせてください!」と捲くし立てられる。意味がわからず目を白黒させている内にレイの骨ばった手でグラスにビールが注がれ、雛木の目の前に据えられた。 「はい、じゃあグラスを持って~」 見知らぬ金髪の掛け声でも思わずグラスを手にとってしまう悲しい社会人の性を思う間もないまま、 「奴隷同士の出会いに、乾杯!」 満面の笑みで一方的にグラスを打ちつけられた。 雛木がグラスに口をつけられもせず面食らっているのを見て流石に可愛そうになったのか、レイが「誠吾(せいご)くん、少し落ち着いてください」と割って入ってくれた。 レイが説明してくれたところによると、誠吾という名の金髪男は、レイの知人男性に最近飼われるようになった奴隷ということだった。 奴隷どころかお仲間の匂いすらしなかったので心底驚いていると、 「だって俺ホモじゃねぇっすもん。一目惚れした相手がヤローで、SM好きだっただけっす。彼氏にしてくれって迫ったら奴隷以外いらんって言われたんで、じゃあそれでいいって奴隷にしてもらったんすよ」 とあっけらかんと言われて頭痛すらしてきた。 ストレートな人間にとって普通は同性同士のハードルでも随分高いはずなのに、更に高い山、いやむしろ深い崖に助走をつけて飛び込んでくるとは。 工藤に会えない気鬱すら吹っ飛ぶその能天気さに、雛木は嘆息しつつ、奢られたらしいビールを一気に呷った。 「で、先輩って何なんですか」 空になったグラスを置き、仕方なく話を振ってやると、 「やだなぁ、タメ口にしてくださいよ奴隷先輩!あ、次もビールにします?それとも茶色い酒?何杯でも奢るっすから、俺に話聞かせてくださいよぉ。俺茶色いの全然わかんないんで、レイさん何かうまいやつお願いします!」 と聞き捨てならない呼称に異議を差し挟む隙もなく、レイに二杯目の注文をされてしまった。 誠吾の口から発せられると、奴隷という言葉が内包するほの暗い淫靡さが程遠くなってしまい、雛木は頭痛を堪えるように額に手を当てた。 「わかった。年下が無理して奢ってくれなくていいから、とにかく奴隷先輩はやめてくれ。で、何の話が聞きたいって?」 レイに次もビールにしてくださいと頼みつつ、仕方がないと腰を据える。相手をしてくれる気配を感じたのか、誠吾は「あざっす!」と深く頭を下げた。 しっかり根元まで脱色された頭頂部を目の前に、雛木は嘆息する。誠吾の礼儀の表し方は、奴隷として仕込まれたというよりは、明らかにヤンキーの先輩後輩のそれだった。 「雛木先輩、レイさんのお友達さんの奴隷なんすよね?俺奴隷初心者なんで、先輩に折り入って相談したいことがあってっすね……」 急に俯き、他に客もいないのに小声になった誠吾は、ダメージジーンズに派手に開いた穴に指を通していじいじとし始める。 感情が忙しないやつだなと呆れつつも、レイが雛木を友人の奴隷だと紹介してくれたことが嬉しくて、現金にも親身に話を聞いてやる気になった。 「俺だって初心者に毛が生えた程度だけど。まぁノンケだっていうなら余計に色々戸惑うこともあるよな。話してみなよ」 急に態度を軟化させた雛木を(いぶか)ることもなく、ぱっと顔を上げた誠吾の目はきらきらと輝いていた。 「先輩マジで頼りになるっす!あの……言いにくいんすけど……」 誠吾は少し口ごもり、それから照れを誤魔化すように早口で言い切った。 「ケツイキってどうやったらできるんすかっ?」 《続》

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