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雛木君がハマった、黒くて細長いアレ ~反省&実践編 1/6~
雛木が工藤と出会い、人生が一変した年は瞬く間に過ぎ去った。
多くの日本企業にとって、正月休みのせいで営業日が少ない1月の月末はかなり忙しい。しかも、その月末を乗り越えても、短い二月、年度末の三月へと向かうにつれて業務は地獄のごとき忙しさとなる。
雛木もその例に漏れず、一月末を目前に、三食とも社内で食べるような慌しい日々を送っていた。
だが、毎年これほど忙しいというわけではない。今年特に忙しいのは、自ら率先して仕事を引き受けているのが大きな原因だった。
忙しくしていれば、余計なことを考えずに済む。
何しろ、雛木は一ヶ月以上工藤に会えていないのだった。
『あけましておめでとうございます。昨年中は大変お世話になりました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
ところで、しばらく日本を離れます。戻り次第、こちらから連絡します。自慰は禁じませんので、心身の健康を大切にしてください。』
そんなメールを受け取って愕然としたのは、まさに元旦の出来事だった。
――早く『充分仕込んだ奴隷』になれますように。工藤さんに満足してもらえる奴隷になれますように。
地元に帰省し、名前も覚えきれない従兄弟の子供達に纏わりつかれながら、雛木は実家の最寄の神社に初詣をした。
お賽銭は一万円。人生で一番の大盤振る舞いだ。
親戚一同の中で誰よりも深く頭を下げ、長い時間真剣に祈った内容が奴隷志願なのだから、神様も大層困っただろう。
だが雛木は、それを滑稽だとも思わないくらい真剣に、今年は奴隷としてもっと成長しようと心に誓っていた。
工藤との昨年最後の逢瀬は、馬越の前で痴態を晒した懲罰で終わっていた。痣や傷が治っていなかったこともあるが、実際問題社会人の年末年始は慌しく、工藤と会えないこともさほど不思議には思わなかった。
もちろん寂しく、体も疼くが、時期が時期だけに仕方がない。そう思って、工藤と会えないままに雛木は年を越したのだった。
早く会いたいと、胸を掻き毟るような切望に耐え、実家でも布団を被って自慰にいそしんだ。
そんな雛木への新年最初の愛するマスターからのメールが、『しばらく日本を離れます』だったのだ。気落ちするなと言う方が無理な話だろう。
日本を離れるとなれば当然海外にいるのだろうが、行き先がわからなければ時差も計算できず、電話などとてもかけられない。
雛木は驚きや寂しさを押し殺し、
『あけましておめでとうございます。お気をつけて』
とだけ返信していた。
せめて元気にしているのかだけでも知らせて欲しかったが、待てど暮らせど工藤からの連絡は来なかった。
『こちらから連絡します』と言われた以上、雛木からは連絡ができない。一日千秋の思いで待ったが、正月休みを終え、東京に戻り、仕事が始まっても、工藤からは梨のつぶてだった。
本当は、なぜ海外に行ったのか、いつ帰ってくるのかと尋ねたい。早く会いたいですと訴えたい。
だが、雛木はあまりにも工藤のことを知らなさ過ぎた。海外渡航が仕事のためなのかプライベートの用向きなのかもわからない。それが定期的なことなのか、突発的なことなのかも知りようがない。
……本当に、海外にいるのかさえ。
飽きられたのだろうか。
そんな不安が打ち消しても打ち消しても襲ってくる。
馬越の前でイきかけたことをまだ怒っているのだろうか。工藤を愛していると伝わってしまい、負担に思われたのだろうか。やはり奴隷として役者不足だったのだろうか。
それとももしかして、もっと好みの奴隷を見つけたのかもしれない。雛木に邪魔されるのが嫌で、海外にいると嘘をついているのだとしたら。
だが、それ以上に恐ろしいことがある。
考えたくはないが、工藤が体を悪くして、入院しているとしたら。手術が必要なのだとしたら。不治の病なのだとしたら。
不安が不安を呼び、雛木は食事も喉を通らなくなっていた。
だがその一方で、工藤を感じたくて、自分はまだ工藤の奴隷なのだと信じたくて、意識を手放すまで毎晩激しい自慰に励む。
ついにはマンションの隣の部屋から壁を叩かれるようになり、自ら猿轡をして自分の体を苛め抜くようになっていた。
そして朝、工藤からのメールがなかったことを確認する度に、雛木は控え目に、時に切々と会いたいと訴えるメールを作った。
毎朝毎朝、昨日の出来事と自慰の内容を報告する文章を綴った。
だが、たった一通さえ送れずに消去していた。
お前最近根詰めすぎだろ、と飲みに誘ってくれたのは馬越だった。雛木を女だと思っているせいか、あんなことがあったせいかはわからないが、ここのところ妙に過保護だ。
騒ぎたい気分ではなかったが、同期ばかりの飲みだから気も遣わなくて済むと説得され、仕方がないなと頷いた。
だが誘いに応じたのは、本当は金曜の夜に予定がないのが耐えられないからだった。
工藤の真意がわからない今は、レイの店に飲みに行くのも怖かった。捨てられた奴隷が何をしに来たのかという態度を見せられでもしたら、もう生きていける気がしない。
だから雛木はしこたま飲んだ。潰れてもいいという思いで飲みまくった。そして、社内の飲み会ではこれまで一度も経験がないほどに酔っ払った。
酒は優しく、残酷だ。慰めてもくれるが、人の弱い部分をも炙り出す。
終電までまだかなりの余裕がある時間にも関わらず、雛木は隣に座る馬越にもたれかかり、涙を一筋流しながら寝息を立てていた。
こんなに弱っている雛木は初めて見たな、と、馬越は雛木の長めの前髪を軽く梳いて、目元を隠してやる。
起こさないよう、その涙をおしぼりでこっそりと拭ってやろうとした時、雛木の鞄の中で振動する携帯電話に気付いた。緊急連絡の可能性も考え、雛木に渡そうと取り出す。
そして表示画面を見て、固まった。
そこには、『ご主人様』という文字が光っていた。
その衝撃的な登録名を他の奴らに見せるわけにはいかないと、とっさに座卓の下に隠す。バイブレーションは長らく続いているがなかなか留守番電話に切り替わらず、馬越は仕方がなく雛木の体を揺さぶった。
電話だぞと声をかけると、雛木が苛立たしげに片目を開ける。だが、着信画面を見せた途端に一気に目が見開かれ、奪い取るように電話に飛びついた。
「工藤さんっ!はいっ!あぁ……良かった……!ちょっと待ってください、すぐ移動します、お願いします、切らないで下さい……!」
普段の雛木からは考えられない、喜びが溢れ、相手に縋るような切羽詰った声音に、周りの数人が息を飲む。その空気を省みることもなく、そそくさと席を立った雛木の後を、馬越が追った。
「……、もう連絡がなかったらどうしようって……」
居酒屋の下駄箱の前で電話に向けて話す雛木の声は、涙に暮れていた。
大切な人がいると聞いてはいたが、喧嘩でもしていたのだろうか。
だが、見てしまった『ご主人様』という登録名が、馬越の思考を不埒な方向へと導いてしまう。
肥大化した乳首、感じやすい体、口にし慣れているのだろう卑猥な喘ぎ声。
一ヶ月以上経った今も、雛木の痴態は馬越の脳裏に焼き付いて離れない。飽きもせず、毎晩お世話になっている。無乳モノAVにはすっかり詳しくなってしまった。
あのいやらしい雛木の恋人が、いわゆるSMプレイのご主人様なのだとしたら、驚くほどしっくりくる。
SMに対しては縛ったり鞭で打ったり程度のイメージしかないが、雛木は縛られるのが酷く似合う気がした。
それに、あの店でかけられた手錠を思い出せば、SMに興じる雛木の幻はよりリアリティを増した。あの手錠を嵌められ、乱暴にあの乳首を引っ張られている姿が目に浮かぶ。
馬越の腹に、ずくりと欲情が兆した。
馬越は息を殺し、雛木の電話に聞き耳を立てる。
「大丈夫です!こんなの用事の内に入りません!すぐに行きます!……会いたい、です……」
雛木の声は嗚咽混じりではあったが、喜びに溢れていた。
近頃のらしくない残業具合は、『ご主人様』のせいだったらしい。しかも、喧嘩していたというわけでもなさそうだ。
「良かった…本当に良かった……工藤さんに捨てられたのかと思うと、俺……!」
そう声を詰まらせるのを聞くと、雛木だけが一方的に振り回されているのでは、と疑念が浮かぶ。
日に日に顔色が悪くなっていくのを心配していただけに、腹が立って仕方がなかった。
しかも、その『ご主人様』はあのいやらしい雛木の乳首をいいようにしているのだと思うと余計に腹立たしい。もちろんその辺りは妄想だが。
虐げられ、一方的に振り回される関係性で幸せになれるとは思えない。自分だったらもっと対等に扱ってやるし、寂しい思いなどさせず毎日抱いてやる。
だが、こんなに喜んでいる雛木を見れば、行くなと留めることもできないではないか。
そっとその場を後にしテーブルに戻った馬越は、心配げにしていた近くの席の同僚達に向かって声を潜めた。
「幼馴染の兄ちゃんが行方不明だったんだって。無事だったのがわかって今すげぇ泣いてるから、このまま帰らせるわ」
適当に嘘をつき、雛木の荷物を回収する。謎めいた雰囲気のある雛木の人間らしい部分を垣間見、同僚達は神妙な顔で頷いていた。
工藤と落ち合う約束をした小さな公園へ向かう雛木の足はもつれていた。
工藤からの電話で、頭は一気にクリアになった気がしている。それなのに、体はアルコールに侵され言うことをきかない。
送ると言い張った馬越を何とか振り切ったが、甘えた方が良かったかもしれない。「お前マジで酔ってるから、気をつけろよ」と真剣に釘を刺される程度には、雛木はしたたか酔っていた。
それでも、もつれる足をひたすら前に踏み出し、レイの店の側の小さな公園へと向かった。
まだ、捨てられていなかった。
そんな喜びで全身が満たされている。
自分の元に帰ってきてくれるなら、海外に行った理由なんて聞かない。どうでもいい。
不安定な歩調で、ただ前へ前へと足を踏み出す雛木は危なっかしかったが、あまりにも一心に目的地へ向かうその足取りを止める者はいなかった。
――あぁ会いたい、早く会いたい!
そう思った瞬間、小さな暗い公園の前で、ハットの縁をくいっと押し上げる愛しいマスターの姿が見えた。
雛木はたまらず、足をもつれさせながら駆け寄って、その胸に飛び込んだ。
こんな厚かましいことを、と思う理性は頭の片隅にあるものの、しがみつく全身が離れようとしない。
「工藤さんっ……工藤さんっ……!」
会いたかったです!不安だったんです!と全身で訴える。アルコールの助けを借りて、雛木は工藤に溶け込みたいとばかりに、その胸にすがりついた。
「不安にさせてしまったようですね。私はやはりマスター失格です」
背中を優しく抱き返され、雛木は号泣した。
「失格なんかじゃないです……!工藤さんは俺の、世界で一番大切なマスターです……!」
雛木が泣き止むまで、工藤は優しく抱き締め続けてくれた。こんなことは初めてだった。
ようやく嗚咽が収まり、工藤の顔をもっとよく見たくなって一旦体を離す。
久しぶりに間近で見た工藤は健康そうだった。黒が濃い瞳も、通った鼻筋も、少し酷薄そうな薄い唇も、どこも変わったところはない。
だが、工藤はどこかこれまでと違っていた。堂々たるマスターの威厳はそのままに、今まで以上に余裕を増し、少し柔らかくなったように感じる。
この場で跪いて革靴の先にキスさせてもらいたいくらいに、素敵だった。
そんなマスターに
「泣かせてしまったお詫びに、今夜はどの鞭で打たれたいかあなたに選ばせて差し上げます」
と言われ、膝の力が抜けた。
お詫びなのに、鞭打たれることは決まっているらしい。それはなんて、主人と奴隷の再会に相応しいのだろう。
しかも工藤は鞭の種類ばかりか、ホテルまでリクエストに応じてくれるという。
雛木は恥じらいながらも、前から興味があった、全部屋が電車をモチーフに作られたホテルに行きたいとねだった。
まるで本当に電車の中でセックスしているような気分になれると、インターネット上で話題になっているのだ。
普段だったら選ばないようなコンセプトのホテルだが、アルコールが雛木の理性を溶かしていた。
工藤は何も言わなかったが、すっと目を細めた。
まるで、あなたは本当にはしたないですねと言うかのように。
その視線だけで、雛木はもう駄目だった。もっと虐めてもらいたくて、
「それで、あの、乗馬鞭がいいです……」
と自ら口にしていた。
ネットで調べた情報を元に、工藤を先導して訪れたホテルには、東京を中心に関東近郊の路線名が表示されたパネルが光っていた。
九割ほど埋まっているが、通勤利用者の多い路線は複数の部屋があるようで、馴染み深い路線名の部屋がいくつか空いている。
雛木は羞恥に掠れる声で、「山手線……」と口にした。
そのパネルにタッチし、吐き出されたカードキーを手にした工藤が、迷いなくエレベーターホールへと向かう。
エレベーターの現在地を示す表示を見上げた雛木の耳元に、身をかがめた工藤の低い囁きが流し込まれた。
「確か以前、山手線の通勤ラッシュがきついと言っていましたね?つまり、いつも使っている電車の中でいやらしいことをして欲しいと……そういうことですね?」
エレベーターを降り、山手線を表す黄緑色のラインが引かれたドアに辿り着く頃には、雛木の腰は完全に砕けていた。
《続》
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