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雛木君がハマった、黒くて細長いアレ ~反省&実践編 3/6~
工藤に捨てられるということ。
プロポーズだと渡されたコックリングを、ゴミに出せと言われること。
それは、間違いなく誤解からきた言葉だった。けれど雛木は、それを告げられた自分がどうなってしまうのか、たった今知ってしまった。
――あぁ俺、工藤さんに捨てられたら、死んじゃうんだなぁ。
雛木は、部屋の隅に置かれた自動精算機に向かう工藤の背を見た。こんな時でも、ホテル代を払おうとしてくれているらしい。ただのプレイメイトなら、割り勘にすべきなのに。
雛木はいまだ抜け切らないアルコールに脱力する体を叱咤し、裸のまま工藤の背を追いかけた。
そして、手を伸ばせば触れられる距離で立ち止まる。
「工藤さん。二つだけ聞いていただきたいことがあるんです。話してもいいでしょうか」
静かな声で語りかけると、穏やかな返事が返ってきた。
「あなたはもう、私にどんな許可も求める必要はないんですよ。あなたと私は対等な立場です。話したければ話すといい」
だがその穏やかさに反して、工藤の背中は強張り、決して振り返ろうとはしなかった。その背に向けて、雛木は静かに言葉を押し出す。
「まず、一つ目です」
精算機に乗せられた工藤の手は、動いていない。雛木の言葉に全神経が向かっていることが、痛いほどわかった。
それに気付いた雛木は少し、微笑んでさえいた。
「俺は、あなたを愛しています」
もうとっくに自分の中で育ち切った言葉は、ころりと転がり出た。もう何度も口にしたかのように、舌触りがいい。それは、工藤の名を呼ぶのと同じくらい、自然な言葉だった。
今更とも言うべき告白に、工藤の背中は何の反応も返さなかった。
けれど、聞いてくれている。
それで構わない。拒絶でさえなければ。
工藤に捨てられるのは、雛木にとって死と同義だと思い知ったから。
「俺のご主人様は、一生あなただけです。愛しています。でも、同じだけの想いを返してくれなんて言いません」
雛木はその場に膝をつき、そっと手を伸ばして工藤のスラックスの裾に触れた。
「俺の心も体も全てあなたの物です。どれだけ痛めつけて、踏みにじっても構いません。他の奴隷を飼うのも、あなたの自由です。
……でもどうか、捨てることだけはしないでください。俺をずっと、あなたの奴隷でいさせてください」
ほんの少しスラックスの裾を持ち上げ、革靴との間に現れた踝 に、黒い靴下越しにそっとキスを送る。
そして堪えきれなくなって、舌を出して浮き出た筋を舐め上げた。
「もうひとつの言いたいことは、あなたの注意を軽んじたことへの謝罪です」
頭を傾け、自分が舐めた工藤の踝に、軽く歯を立てる。早くこの足を持ち上げて、踏んでくれと言うかのように。
雛木は踝へ頬を押し付け、語りかけた。
「あなたから連絡を貰えなくて、寂しくて、不安で……体が、疼いて……」
くしゃり、と、紙を丸めるような音が聞こえて、視線だけ上に上げる。精算機の手前で、一万円札が握り潰されていた。
雛木は無理矢理体を工藤と精算機の間に押し込み四つん這いになると、工藤からよく見えるように思い切り舌を伸ばして革靴の先端を舐めた。それ以外に、自分はあなたの奴隷だと行動で示せる方法が思いつかなかった。
工藤の焦げ茶色の革靴は、いつもより埃っぽく、ざらついていた。
きっと靴を磨く間もなく、会いに来てくれたのだろう。
雛木は身を最大限低く伏せ、舌が汚れるのも構わず丁寧に工藤の靴先を舐め清めてから、謝罪の言葉を紡いだ。
「昨日の夜、自分で鞭を使いました。打ってもらう痛みが恋しくて、ネットで安物の乗馬鞭を買ったんです。バイブで…ア…ヌス……を責めながら、自分で……お尻を何度も打ちました。素人が使うのは危ないって教わっていたのに。本当に……ごめんなさい……」
それは、一片の偽りもない事実だった。寂しくて、不安で、工藤に与えられた打擲 を思い浮かべながら、自ら鞭を振るったのだ。
気持ちよくなかったと言えば嘘になる。自慰のために自らを鞭打っているという背徳感にも興奮した。
だが、狙いは定まらないし、力加減もうまくいかないし、あの巧みに追い込まれていく昂りにはほど遠くて、フラストレーションは溜まる一方だった。
それでも、鞭が空を切る音や、肌に当たった瞬間の焼け付くような痛みが工藤とのプレイを思い出させるから、自分を鞭打つことを辞められなかったのだ。
「つまり、自らへの鞭打ち だったと?」
一つ目の告白については触れもせず、工藤が冷たい声を発する。
それでも良かった。工藤が口をきいてくれるなら、それだけで嬉しい。
「はい。工藤さんの鞭が恋しくて、勝手な真似をしました。反省しています。けれど、これだけは言わせて頂きたいのですが……」
雛木は一つ息を吐き、初めてきっと工藤を睨み上げた。
「俺は、工藤さん以外に調教されたいと思ったことはありません。俺のご主人様は……工藤さん、だけです……」
しかし、説得するつもりがうっかり涙声になった。涙が込み上げて睨み続けていられず、額を冷たい床に押し付けて全身全霊で恭順を示す。
それすらも、喜びだった。
「…………なるほど」
もう声を聞けないのではないかと思うほどの間を経て、工藤の言葉が頭上から降ってきた。
押し付けていた雛木の額と床の間に強引に革靴の爪先が捻じ込まれ、蹴り上げるようにして仰のかされる。
「どうやら誤解があったようですね。早合点して申し訳ありませんでした」
そう言う工藤の表情は、とてもではないが謝罪を口にしている人間の物とは思われなかった。
不遜で、堂々としていて、雛木が焦がれたマスターそのものだった。
「ですが、あなたは大きな勘違いをしているようです。私の教え方も悪かったのでしょうが。立って、つり革の下に行きなさい」
床から見上げた雛木の視線と、見下ろす工藤の視線がしっかりと絡み合う。これまで見たことも無いほどの傲岸さで、工藤が吐き捨てた。
「奴隷のなんたるかを、きちんと躾けます」
歓喜が駆け巡り、雛木は思わず「あぁ……」とため息のような小さな声を漏らす。
――あぁ……あぁ……!なんて、なんて幸せなんだろう。工藤さんがまた俺を奴隷だって言ってくれた。躾けるなんて、そんな、どうしよう、夢みたいだ……!
雛木は悦びの熱い吐息混じりに、「よろしくお願いします」と頭を下げた。そして言われた通り部屋の中心に戻り、全裸でマスターを待つ。
革製のボストンバッグを手に近づいてきた工藤の目は、見慣れた、いや、それ以上の情欲に、深く輝いていた。
「今日は跡が残る吊り方をします。痛みますが、構わないですね?」
低められた声は官能的で、その上懲罰の厳しさを漂わせていて、雛木の喉は自然と鳴る。
構わないどころか、嬉しいに決まっている。
雛木は大きく頷き、蕩けるように微笑んだ。痛みは恐ろしいはずなのに、工藤が跡を残してくれる気なのだと思うと、股間がむくりと反応する。
つり革の下で性器を固くしながら「躾」を待つ雛木に、枕が二つ手渡された。指示された通り枕を重ねて床に置き、その上にバランスを取って立ったところで、腕を工藤に掴まれる。
まずは右の二の腕を、麻縄でつり革の輪にしっかりと結び付けられた。左の二の腕も同じように縛られると、胸が開かれ、晒された状態になる。更に手首も、二の腕が固定された隣りのつり輪に縛り付けられた。
十字架にかけられたように、両腕を大きく開いた状態で電車のつり革に固定されたのだ。
そしてウエストにもぐるぐると麻縄を回され、つり革がぶら下がる金属のポールにしっかりとかけられた。腕だけで吊ると、肩を痛めやすいからだろう。
その手つきは淀みなく、確信に満ちている。工藤はそれぞれの縄の結び目を再度確認すると、雛木の正面に立ち、しっかりと視線を合わせた。
何も尋ねられてはいないが、雛木はこくりと小さく頷き、大丈夫だと伝える。すると、工藤も薄く微笑み返してくれた。
だが、その口元に宿るのは慈愛でなく嗜虐への高揚だった。
サディストの顔を隠しもしない工藤は、雛木の前で膝をつき、重ねた枕の上でバランスを取っている両足首を揃えて縛り上げた。
それは、さながら火刑に処される罪人の足元を縛り付け、暴れないように戒めるかのようだった。
そして工藤は立ち上がると、雛木と視線を合わせてもう一度微笑んだ。ほとんど無邪気とさえ見えるほど、晴れ晴れと、嬉しげに。
次の瞬間、雛木が丹念に舐め清めた靴先で、重ねた枕を思い切り蹴り飛ばされた。
雛木の足は完全に宙に浮いた。全体重が腕とウエストにかかり、麻縄とつり革がギシギシッと激しい軋みを上げる。締め上げらえる痛みに、雛木は思わずぐうっと呻いた。
無意識に地面を探して、伸ばしたつま先が空を探る。だが、どこにも支えてくれるものはない。体がゆらゆらと揺れている。
縄が食い込む感触に身を委ねるように、雛木は目を瞑って天井を仰いだ。
空中に縫い止められた雛木はあまりにも無防備だった。もう自分の意思では逃れることも、はしたない場所を隠すこともできない。自分の足で立つことすらできないのだ。
雛木の全ては今、工藤に支配されている。麻縄が食い込む苦痛は消えないのに、自分はもう工藤のされるがままになるしかないのだという確かな実感が、雛木の胸に不思議な安らぎをもたらしていた。
「まずは基本のおさらいをしましょう」
厳格な教師のような口ぶりは、目の前の男が裸で吊られていることなど見えないかのようだった。
工藤の手には、鞭先がシリコンでできた乗馬鞭が握られている。雛木が初めて打って貰った思い出の鞭だ。最近ではもう少し上級者向けの鞭を使われることが多いため、目にしたのは久しぶりだった。
もはや懐かしさすら感じる。あれから打つ範囲や回数を増やされ、様々な打擲道具を試される内に、雛木はすっかり鞭が好きになってしまっていた。
といっても鋭い痛みに体はつい逃げてしまうのだが、あの罰される実感とじんとした痛みには興奮する。
それに、鞭を振るう工藤は殊更素敵だった。一本鞭もバラ鞭もいいが、スーツ姿の工藤には乗馬鞭が一番似合うと思う。野蛮さと上品さの兼ね合いがいい。
近すぎず遠すぎない位置で鞭を振るう全身を見られるのも、乗馬鞭ならではの魅力だ。
眉一つ動かさず、しかし打つ位置と強さには細心の注意を払って、無駄のない動きで鞭が振り下ろされる。その表情も、動きも、全てが美しく優雅だ。
そんな風に打たれて、雛木が工藤に振るわれる鞭を愛さないはずがなかった。
「初めてこの鞭を使った日、私は素人が打つとすぐ痣になるから注意が必要だとお伝えしました。覚えていますね?」
シリコン製の柔らかいその鞭先で、工藤は雛木の腹をすっと撫で上げた。くすぐったいような刺激だが、動物としての急所に打擲道具で触れられると、本能的な恐怖につま先がぴくりと跳ねる。
「はい、覚えてます」
唇を噛んで答えた。注意しなくてはならないのは、他人に対して鞭を振るう場合だけではなく、自分自身に対してでも同じだろう。考えなくてもわかることだった。
小さな声でごめんなさいと謝罪する。もちろん、その程度の謝罪など工藤が求めていないことは明らかだ。
雛木は吊られ続ける痛みに耐えながら、工藤のお説教を聞いた。
「SMは体が資本です。体をいたぶってもらいたいなら、逆説的ですが、あなたは自分の体を大切にしなくてはなりません。そして、そもそもの話ですが、奴隷に自分の体を傷つける権利はありません。その体は本人の物ではなく、主人の物なのですから」
工藤の表情は平静で、優しさすら感じられた。だがその後、雛木の背後に回りこみ、耳に唇をつけるように流し込まれた声は、憎悪とも呼べるほどの怒りに満ちていた。
「それなのに、こんな醜い痣をつけるなど……!」
それは本気の怒りだった。他人に打たれるのを許したわけではなく、雛木自身がつけた痣なのだと知っても尚、工藤は怒った。素人が打ったということだけではなく、体に勝手に傷をつけたことにも怒ってくれたのだ。
それは、雛木には何よりも嬉しいことだった。まさに、工藤が雛木を自分の奴隷だと思ってくれている証拠に他ならない。
心を込め、申し訳ありませんと詫びた途端、「黙りなさい」と切り捨てられる。
謝ることすら、許可がいるのだ。だって雛木は、奴隷なのだから。
言われたとおり従順に押し黙り、吊られたまま主人の言葉を待つ雛木を見て、工藤の空気が少し軟化したのを感じた。無数の痣が散る尻を、鞭先でそっと撫でられたのだ。それだけでも声が漏れそうになるのを、雛木はぐっと堪えた。
室内に沈黙が落ちる。
雛木は麻縄の軋む音さえ出ないよう、身じろぎせずに背後の工藤の気配を追った。
工藤は、何かを逡巡しているように思えた。見もせずに感じられるほど、雛木の全神経は工藤だけに向かっていた。
長い沈黙を経て、工藤の口から諦めたような小さな溜息が漏れたのがわかった。
そして工藤は、口を開いた。
「SMにおいて、鞭は主人の体の延長のような物です。そして、私にとって鞭打ち は、言葉そのものです。それは褒美であり、赦しであり、懲罰であり、そして……」
「愛情です」
《続》
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