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第8話
一通りの片づけを終えた伊月さんが「お待たせ」と顔を出す頃には、いつもの閉店時間を過ぎていた。
「駐車場、すぐそこだから。車、乗れそう?大丈夫?」
裏口から一緒に出て「大丈夫」と頷いた。
「でも、ほんとにいいのかな……」
そんな風に呟くと、伊月さんは俺に気が付かれないように小さく溜息を洩らしながら顔を背けて。
「…。甘えベタなんだから」と、小さく呟いた。
聞き取れなかった俺が「何?」と聞くと伊月さんは何事もなかったかのように「帰ろうか」促す様に背中に手を当てた。
伊月さんはこんな風にさり気なく触れることも多い。元々スキンシップが好きなのか、職業柄そういう機会でもあるのか。他の人にもこんなことするのかなと、ふっと考えてしまった。
裏口近くの駐車場に置かれた車に乗ると、座って気が緩んだのか、和らいでいた頭痛が酷くなり始めた。顔を顰めた俺に伊月さんが心配そうな顔をする。
「…大丈夫?」
「ちょっと、頭痛がする…けど、休めば、多分…」
「薬も飲めないしな…。とりあえず車出すけど、具合悪くなったらすぐ言うようにね」
それから、と伊月さんは後部座席からガサガサと音を言わせて水の入ったペットボトルを差し出した。反射的に受け取る俺。
「水分、摂っといた方がいいよ」
「伊月さん、これ後でちゃんと請求して…」
疲れた声でそう言うと、伊月さんは小さく噴き出した。
「そんなもの、気にしなくていいのに。一至君、俺の店に来て何年も経つのに相変わらず遠慮するよな」
伊月さんは最近、やっぱり妙に優しいと思う。さっき店で聞いたような嬉しいことを、安易に口にする機会も増えた。
その度に俺はつい甘えたくなって、伊月さんが気になって、一生懸命予防線を張っている。
この線を取っ払ってしまったら伊月さんに違う意味で甘えてしまいそうで怖いのだ。
優しくされるのはとても嬉しいけれど、勘違いしてしまいそうで怖い。
車が動き出し、静かな音楽が流れ始めると安心感と疲労から不意に眠気が襲ってきた。「寝ててもいいよ」という伊月さんの声が聞こえると、それが暗示にでもなったかのようにスっと意識が遠のいて行く。
「……?」
重たい瞼を開き隣を見ると、俺に気づいた伊月さんが携帯から顔を上げた。
俺、寝ちゃってたのか。そうだ、伊月さんに車出してもらって、それで、どうしたんだっけ?
「…大丈夫?」
「……うん」
おかしいな、ここ俺の家じゃない。駐車場、だよな。
俺が寝ちゃったからどこかに停めたのかな。でも、見覚えがある。どこだっけ。
「どう?具合は」
「ちょっと良くなった…かな。まだ体重たいけど。あの…伊月さん、ここって…」
「一至君の家も寄ったんだけど、良く寝てたからさ。ここ、俺の家だよ、覚えてない?」
「え!うわ、ごめんなさい。俺、ここから帰るから!!」
慌ててシートベルトを外すと伊月さんがハンドルに手をついて笑いながら。
「泊ってけばいいのに」と言った。
「いや、それは…!」
「明日、店まで送るよ。明日は朝も余裕あるし」
「それは遠慮します」
伊月さんに送って貰えるのは嬉しいけれど、恐れ多くてそれはお願いできない。伊月さんは「それくらい甘えていいのに」と言うけれど。
「具合が悪い時は本当は自宅の方が落ち着くだろうけどさ。うちのベッドも結構気持ちいいと思うよ」
「でも…」
「それと。…一至君がすぐ寝ないっていうなら聞いてみたいこと、あるんだけど」
「え、何?気になる」
「泊ってくなら教えてあげる」
揶揄るように言う伊月さん。誘導されているような気もしたが、俺はその言葉に従い、甘えることにして「じゃあ…」と遠慮がちに言うと「決まりな」と笑顔で返された。
伊月さんの家には幾度か来たことはあるが、泊まるのは初めてだ。緊張して眠れなかったらどうしよう。
車から降り、ホールを抜けてエレベーターに乗ると不意に気持ち悪さが襲ってきた。訴える程ではなかったので耐えていると、俺のすぐ前に伊月さんの背中があって。背中に寄りかかって甘えてしまいたい衝動にかられた。
触れたい。と、思わず手を上げかけ、すぐに愚かな自分に気が付いて手を降ろした。きっと今は具合が悪いから弱っているだけ。きっとそうだ。
「俺が言うのもなんだけどさ。明日、仕事は休めないの?」
「…うーん、繁忙期は過ぎたし、鍵はオーナーが持ってるし、行かなくても大丈夫だけど。明日起きてダメだったら考えようかな…」
伊月さんもそんなこと言うんだなあ。
俺の中の伊月さんは仕事に対して熱心なイメージがある。てっきり、送ってあげるから頑張って行っておいで、なんて言うかと思ったのに。
「お邪魔します…」
伊月さんの後ろをついてリビングへと入ると、目についたのはダイニングのカウンターに置かれた酒の瓶。
奥の棚にも酒の瓶がいっぱい並んでいる。
仕事のついでに集め始めたらつい溜まってしまったんだそうだ。
つい、ものを集めてしまう癖があるらしく、酒以外は物をおかないように気を付けているらしい。
お陰でちょっと殺風景な伊月さんの部屋。その代わりと言ってはなんだが、リビングにはグラスやら洋服やら雑多に物が散らかっていて、伊月さんもこういうとこあるんだな、ってホっとしてしまう。
「ごめん、呼んどいて散らかしっぱなしで」
「平気平気。俺も似たようなもんだし」
伊月さんが片づけをしている間、ソファを借りた。座っていると少し体調が回復するような気がして、しばらく背凭れに体を預けていると、後ろから顔を覗かせた伊月さんが「どう?」と聞いてきた。
「ちょっと落ち着いた。…あの、さっきの話って何?」
伊月さんが時計を見て、俺を見る。
「ほんとに大丈夫?」
「うん、ちょっと寝たから目冴えてるし、伊月さんが平気なら」
伊月さんはじゃあ、ちょっとだけ。と俺の隣に座った。
「一至君、前に店に来た時に男の子を家に送ってったことあったよね」
太一の事だとすぐわかってドキっとした。伊月さんがいくら俺のことをいろいろ知っているからといっても、あの日何があったかまでは言いにくい。あれはただの事故みたいなものだ、と自分に言い聞かせる。
「あの子がこの前店に来てね。一至君のこと、聞いてきたんだ。随分、一至君のこと気にしてるみたいだったよ」
「太一が…?」
「そ。…迷惑を掛けちゃったから、もう一度会いたい…ってね。それで、俺に連絡先を伝えて欲しいって名刺を渡してきた」
俺がずっと店に顔を出さなかったら、気にしちゃったかな。
心配かけてしまっただろうか。
「…最初は、お客さんのプライベートなことは言えませんので、って断ったんだけどね。…店にもよく来てもらってるみたいだし、あんまりにもしょんぼりしてたから…。少しだけ、一至君の話しちゃったんだけど…」
「それはいいよ。…太一、元気そうだった…?」
気になって聞いてみたのだが、伊月さんは黙ったまま。
「……?」
どうして答えないんだろう。
「伊月さ…」
「…一至君…、…彼を家に送ってったんだよね」と、俺の声を遮って念を押す様に言う。
ゆっくりとした口調がまるで尋問でもしているかのようで、動揺しながら頷いた。
「……。そこで、何があったか…聞いてもいい…?」
最初に沸き起こった疑問は「なんで?」だ。
伊月さんはなんで俺にそれを聞く。太一が迷惑掛けたって、言ったから?
心配して?
「……俺には言いにくいこと…?」
伊月さんの表情がわずかに曇った。その顔は、俺の思い込みかもしれないけれど寂しそうに見えて、伊月さんに悪いことをしている気分になって焦った。
「そういう訳じゃ!…太一とは、その…。あの日、太一…彼女にフられたってすごく落ち込んでたんだ。それで…泣きつかれて…」
「……。慰めた?」
その”慰めた”という単語の中にはいろいろな意味が含まれていただろう。伊月さんがどういう意味で言っているのか計り兼ねたが、そういう風な意味で言っているように聞こえた。「体込みの意味なのか」と。
だから俺は言ってしまった。
「最後までは、…してない…」
伊月さんの顔を見ていられず目線を逸らした。会ったばかりの相手とそんなことになるなんて、いい加減な奴だと思われただろうか。答えない伊月さんに段々と不安が募り、聞かれてもいないのに言い訳を始める。
「……太一見てたら、…自分がフられた時のこととか……いろいろ思い出して。……どうしてもほっとけなくて…話だけ聞いたら帰ろう…って思ってたんだけど」
あの時の太一の寂しそうな表情、声、縋るように触れた手。思い出すと今も切なくなる。
俺も伊月さんに話を聞く、という形で慰めて貰ったことがあるけど、あんな感じだったのかな。
「…あの日は太一、ひどく酔って……それで。……でも、一時的なものだと思うし、きっと…」
「…でも、彼は一至君のこと…凄く気にしてるみたいだった」
「え」
ぱっと顔を上げると、伊月さんが真直ぐに俺を見ていて再び目線を逸らす。
「……。彼とね…名刺をもらった時、少しだけ話をしたんだ。そしたら『男同士に偏見って持ってますか』って、聞かれた。…『急に男に興味を持つことなんてあるんですかね』…ともね」
「……それって…」
俺の、こと?
太一、まさか俺のこと本気なんてことは。いや、そんなことは。
そんなはず。
いよいよ、動揺の色が隠せなくなり、なんと答えていいのか迷っていると、不意に伊月さんと俺の距離が縮まって。
反射的にソファに座ったまま体ごと向き直ると、伊月さんはいつの間にか膝を乗り上げていて。驚いてバランスを崩した俺はソファの上に体を落とし、事実上押し倒されたような形になった。
「………」
びっくりして言葉が出てこない。伊月さんも黙っている。その顔は心配そうにも見えるけれど、苦しそうにも見えた。
どうして?
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