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第9話
今までこんな事は1度だってなかった。
神崎さんと関係を持ったと分かった時、と言っても俺がバラした訳ではなくて神崎さんがベラベラ喋ったのだが。その時も驚かれたし「あの人にはもうついていくな」と警告もされたけど、それだけだった。それなのに。
心臓が早鐘を打ち、息を呑む。
戸惑う俺に伊月さんは、
「…連絡先、いる?」と、この状態と関係あるような、ないような問をする。
無表情のままの伊月さんの、低く響く声には妙な威圧感がある。
俺は出来たら太一には連絡を取りたい。けれど、それを言ってはいけない空気が漂っていて、緊張と不安に心臓がバクバク言い出した。
伊月さんはどういうつもりで、俺にこんなことをしてるんだろう。
俺はどうすれば。
咄嗟に逃げるように目線を逸らしたが、頬に手を当てられて上を向かされた。
「……あの…」
伊月さんが怖い。
「…もし、会った時にその子にこんな風に迫られたら、どうする…?」
どうって。なんて答えればいいんだ。
「そ、……れは」
混乱のあまりまともな答えなんて出やしない。太一と今後どうするかどうかなんて考えたこともないし、そもそも俺の想定の中には迫られるという出来事もないのだ。
太一の事を聞かれているのに、俺の上にいるのは伊月さんで。太一の事を聞かれているのか、伊月さんの事を聞かれているのか、わからなくなってきた。
「…そういうことがないとも言い切れないだろ?」
口調は決して責めているような雰囲気はないけれど、酷く冷たく感じた。ゆっくりとした声と真剣な表情が余計にそう思わせた。
だから、俺はどうしても伊月さんが俺を責めているように感じられてしまって。
「…一至君はさ…。誰に対しても少し無防備すぎるんじゃないの…?」
そう言って俺の頬を撫でた手に。心臓がドっと震えて。胸が締め付けられるように苦しくなった。
伊月さんはきっと呆れたんだ。
誰に対してもお前はそうやって体を許すのか。そういう風に言われている気がした。
神崎さんとのことも合わせて責められているように感じた。
過呼吸のように呼吸が少しだけ荒くなる。
泣きたくなんてなかったのに、じわりと目に涙が溢れる。
「ごめん、……なさい…」
伊月さんから顔を隠す様に手で覆った。それしか言えなかった。何を言っても言い訳にしかならない。悪いのは俺の弱さなのだから。
泣いても言い訳にもならない。けれど。どうしていいか分からない。
伊月さんの顔を見るのが、怖い。
俺が急に泣き出したのに気が付いたのか、伊月さんがはっと息を呑む。
そして。
「………っ…ごめん」
今度は驚いたような伊月さんの声。さっきまでの冷たく響く声では、ない。
泣いてしまうなんて、みっともない。そう思いながらも、なかなか涙は収まらなくて。
手をどかせすにいると、体に重みが触れ、俺の頭の後ろと肩の下に伊月さんの手が触れ、ぎゅっと抱きしめられた。
「……急に変な事言って、ごめん。………一至君が謝る事じゃ、ないんだ」
「……伊月さん、……怒ったんじゃ…」
動揺した様子の伊月さんに、そっと顔を覆っていた手をどかすと、すぐ横に伊月さんの顔があった。
「……違う。…ごめん、……責める様な言い方、したな…俺」
「でも、それは……俺が太一と…」
「…それは……俺が口を出すことじゃ、ない。………一至君を見てると……どうしても、心配で……ごめん」
伊月さんがこんなに動揺してるの、初めて見る。
思わず抱きしめたくなるような衝動に駆られる。でも、触れてはいけない気がした。
伊月さん、怒ったんじゃないんだ。
心配、してくれたんだ。
良かった。
安堵に体中の力が抜けていくのを感じる。
「……良かった…俺。…伊月さんに呆れられたのかと……思った…」
「…呆れたりなんてしない…」
「…うん」
「…一至君は、俺に呆れられたら寂しい…?」
「……。寂しい……凄く…」
寂しいよ。
いつも余裕そうで、俺を嗜めるような伊月さんが、こんなこと言うなんて。
俺に触れていた腕を緩め、顔を上げたその表情が切なげで。俺は思わず伊月さんの顔をじっと見つめてしまった。
伊月さんが俺を見返していた時間は、ほんの数秒だった。
俺の頬に手が触れて。
先程とは違う意味で緊張に心臓が高鳴る。
伊月さんは暫く黙って俺を見詰め、最後にもう1度「ごめん」と言った後、伊月さんは気まずそうに俺から体を離し。俺の背中に手を添えて抱き起してくれた。
それと一緒に僅かに感じていた重みと体温が、ゆっくりと離れていく。
「…これは、渡しておかないとな」
長い時間ポケットにでもしまってあったのだろう、少し皺の寄った名刺。苦笑いしながら伊月さんがそれを差し出した。俺は受け取ってもいいのだろうか。
「連絡するかどうかは、一至君が決めればいい。俺は彼から受け取った義理があるから、渡すよ」
「…うん…」
名刺には藤島太一、と太一のフルネームと携帯電話の番号が書いてあって。俺はそれを伊月さんの手から受け取った。
「…驚かせて、ごめんな」
俺は首を振る。確かに驚いたけど呆れられたんじゃないなら、今はそれだけで良かった。
伊月さんが心配だというなら、そうなのだろうと自分を納得させた。
「…俺もちょっと…疲れたかな……。……神崎さんのことがあったから、…心配になって…ね…」
少しずつ口調や表情がいつもの柔らかくて優しい伊月さんに戻る。
「…ん……ありがと。…心配かけてごめん…」
だから俺もやんわりと笑んだ。
「長引かせちゃったな…体調、どう?」
そういえば体調悪いんだった。そんな事も吹っ飛ぶくらいの出来事だったので、すっかり忘れていた。まだ少し頭痛はするけれど酷くはない。
「思ったよりも大丈夫そう」
「そう?…明日もし仕事休むなら俺の家に居てもいいから。帰りたくなったら言って」
まだ仕事をする、という伊月さんを置いて先にベッドを借りて眠る事にした。
真っ暗な寝室。慣れないベッド。伊月さんの匂いがする。
布団に包まり体を丸めて先程の事を1つずつ思い返してみる。
さっきのあれは何だったんだろう。
伊月さんは俺が心配だって、言った。心配だから、あんなことした、のかな。
でも。なんで、あんな。
押し倒された時のことを思い返すと、甘く締め付けられるような心地になる。
ヤキモチ、という言葉が一瞬だけ浮かんで。慌ててそれを打ち消した。
自分の伊月さんへの気持ちが変化してしまいそうで怖い。
あの人は優しいから、ただ、俺が心配なだけ、きっとそうだ。
そんな事ばかり考えていたらなかなか眠れなくて。眠る前に伊月さんが来てしまうんじゃないだろうか、とも思ったが流石に体調不良には勝てずに眠りに落ちてしまった。
そして、浅い眠りの中でいくつも夢を見て。俺の夢の中には幾度も伊月さんが出ていたような気がして。朝起きた時、伊月さんが隣にいるのを見た時は一瞬まだ夢の続きかと思ったくらいだ。
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