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第10話
「すいません、はい…1日…はい。引き継ぎは特にないんで大丈夫です。ありがとうございます」
翌日、出勤の1時間前。遅くまで眠れなかったのがいけなかったのか、眠りが浅いのがいけなかったのか。朝起きたら体が酷く重たくて。
眠る伊月さんを置いてリビングで会社に休むと連絡してしまった。
「…はあ…」
軽い吐き気と頭痛を覚え、こめかみを軽く抑える。
「やっぱり無理だった?」
「あ、ごめん。起こした?」
俺の電話で起こしてしまっただろうか。振り返ると、部屋着を着た眠たそうな伊月さんがそこにいた。あの後仕事をしていたようだし、ほとんど眠ってないはずだ。
「ん…やっぱりちょっと、今日は無理みたいで。いいよ、って言って貰えたから」
「…じゃ…もうちょっと寝る?それとも、食べられるなら飯用意するけど。いけそう?」
と、吐き気がしていたはずなのに食事と聞いて急にお腹が空いてきた。
一緒に朝食を食べている最中に「どう?」と聞かれたので「美味しい」と答えたら伊月さんは笑顔で「良かった」と俺に言った。
いつもの伊月さんだ。
「家、帰る?まだ休んでってもいいよ?」
どうしよう。これが困ったことに、伊月さんに用意してもらった朝食を食べたら思った以上に体調が回復してしまったのである。体って不思議だ。
「うーん…体調戻っちゃったみたいだし…どうしようかな」
この場合、会社に行くというナンセンスな選択肢は俺の中にはない。選択肢としてあり得るのは、伊月さんにこれ以上迷惑を掛ける前に家に帰る。もしくは、町に出て気分転換でもして帰る、かどちらかだ。
「じゃあさ。…どこか遊びに行こうか」
「へ?え、…伊月さんが?俺と?」
「…ここで一至君じゃなかったら誰と行くんだろうね?一至君が嫌じゃないなら、昨日のお詫びも兼ねて、さ」
「ええ、いいよ、そんなの。伊月さん、今日夜仕事あるじゃん。昨日だってあんまり寝てないだろ」
「まあ…そうだけど。俺、1回起きちゃうと眠れないんだよ。行きたいとことかない?」
そういうものなのだろうか?伊月さんは睡眠短いタイプなのかな。それにしても、お詫びと言われると申訳ない。
「うーん……」
「なら、俺の買い物につき合ってくれる?」
どうあっても伊月さんは俺を誘ってくれるようだ。それなら、と頷くと伊月さんは満足そうな顔をした。
そして午後2時を回った頃。俺は伊月さんとファーストフード店のカウンターで肩を並べて遅い昼食を摂っている。距離感もすっかり元通り。
「伊月さんは仕事サボったことある?」
「あるある。…一至君、仕事サボった事ないの?」
「あるよ!って自信満々に言うことじゃないけど。大学なんてサボりまくり」
「俺もだよ。俺は専門学校だったけどね」
専門学校か。そういえば、伊月さんの過去ってあんまり聞いた事がない。神崎さんはモテてたって言ってたけど。
「伊月さん、専門学校行ってたんだ。…あれ、神崎さんも?」
「あの人は高校の時の先輩。その後腐れ縁でいろいろね。俺、元々美容師になりたくて、こっち来たんだ」
「そうなんだ。…なんで…ならなかった、って聞いてもいい?」
美容師だって似合いそうだし、伊月さんなら難なくこなせてしまいそうだ。
「俺には向いてなかったみたいなんだよな。意外と手先が不器用だったらしいよ」
「…意外…すっごい器用そうなのに…。バーテンダーだって器用じゃなきゃ出来ないよね?」
「手をね、使う場所とかが違うみたいで。…それで、学校を出たはいいがなかなか上達しないし、周りはどんどん成長していくし、俺も焦って自棄になって…」
伊月さんも人の子なんだなぁ、と思いながら横顔を眺める。懐かしんでいる様子だけど今はもう消化できたのだろうか。
「それで、フラフラしてた時期に今のオーナーと会ったんだよ。それで、いろいろ話してる内に、いいや、って思ったんだ」
「…そんな、もんなの…?」
「不思議だろ?」
「うん。すっごく…」
一体どんな話をしたんだろう。
「恥ずかしい話なんだけど、うちは元々祖母が美容室やっててね。カッコイイ人だったから、俺な憧れててさ。あの人みたいになりたくて、なれると思って過信してたんだなぁ…って気が付いたんだ」
「伊月さんっておばーちゃん子?」
そうそう。と笑う伊月さん。なんだか想像がつかない。
「当時はバカみたいにカッコつけてたし。でも、会社員をやる自分って想像つかなくてさ。オーナーのとこ出入りしてる内に、この仕事もいいかなって」
「……伊月さんって、行動力あるよね」
「そう、でもないと思うんだけど…。なんだか流されてる内にいろんな事してた感じかなぁ。…一至君は?今の仕事、なんで始めたの?」
「え!俺?…えっと…俺、バイトの時に系列のお店にいたんだ。それで就職活動上手く行かなくて、声掛けて貰って。…でも、俺接客得意って訳でもないし、なんとなく続けてる感じで…」
伊月さんのように意志を持ってやっている訳ではなくて、そんな自分が情けない気がして俯いてしまった。
「いいんじゃないの?それでも。続けてるんだから悪い事ばっかでもないんじゃないんだろ」
「…ん。…ケーキってさ自分のために買う人も多いけど、誰かのために買う人も結構いるんだよね。恋人に、とか家族に、友達に…って。で、そういう人ってすっごい悩んで買っていくんだよね。それに、ケーキって名前が複雑でわかりにくいじゃん。説明した後で『美味しそうですね』とか言われると嬉しくて…」
店に来るお客さんはいろんな人がいて。変わった人もいれば常連の人もいる。親しくなった人もいれば失敗して迷惑を掛けてしまった人もいるけれど。喜んでもらえるのはやっぱり嬉しくて。と、思わず語ってしまったことに気が付き、ハっとして伊月さんを見ると。伊月さんは、うんうん、と頷いて笑っていた。
「一至君。世の中はね、必然で出来てるんだって」
「…伊月さんの格言?」
「いや、オーナーの受け売り。俺がこの仕事についたもの。一至君が今の仕事してるのも。俺がこうやって一至君とご飯食べてることも。必然なんだってさ」
「…必然…」
「そ。いい事も悪い事も意味があって起きてる…んだそうだ」
必然か。過去を後悔してばかりいる俺だけど、俺に起きたことも。例えば葵さんと、多分もう会えない事も。次に何か起きるための必然なのだろうか。こうやって俺の隣に伊月さんがいることも。
昨日起きた出来事も?
伊月さんにとってあの行動はどんな意味があったんだろう。凄く聞いてみたいけれど、聞くのは恥ずかしいし怖い。
と、俺が心の中で葛藤していると。伊月さんさ冷めたポテトを摘んだ。そんな仕草も様になっている。そして、それをそのまま俺の口元へと持ってきた。食べろってことなんだろうか?
「…?」
黙ってニコニコ笑っているところを見るとそういう事らしい。軽く口に銜えてから自分の手で掴む。
「餌付けしてるみたいだな、なんか」
「自分でやっておきながら…」
人をペットかなんかみたいに。
「一至君は猫っぽい時と犬っぽい時があるよね」
「何それ」
「だって警戒心剥き出しなのに、懐くと急に尻尾振るじゃない」
伊月さんの中で俺は一体どんなキャラになっているんだろう。
明るくて柔らかい日差し。シャツにジーパンというラフな格好の俺と、ストライプの麻のシャツに黒のスリムなブーツカットのパンツを履いた格好の伊月さん。周囲から見ると俺達は友達同士に見えるのかな。
昨日のこと、今聞いてしまおうか。そう思っていると、伊月さんが急に「ごめんね」と言った。昨日の事を謝られたのかと思って動揺してしまったが、そうではなかった。
「昨日のお詫びだって言ったのに、ファーストフードで」
なんだそっちか、と拍子抜けした。先に聞かないで良かった。
「いいよ。俺がいいって言ったんだし。それに、家出る時間が遅かったから、目ぼしいとこなかったじゃん」
他にも気軽に食べられるところはいくらでもあったのだが、どこがいい?と聞かれて俺が一番近くにあったここを選んだだけの話。
「次はもっといいとこ連れてくから」
「…なんかデートみたい」
「デートじゃないの?」
頬杖をついた伊月さんが俺を見てふっと笑って。ドキっとする。
「一至君はすぐ顔に出るよね。……。そんなんだから心配になるんだよ、俺は」
昨日のことを言っているのだろう。でも口調は昨日と違って優しいままだ。俺はそんなに危なっかしいのだろうか?
「…俺、そんな無防備かな…」
「見る人が見るとね、そう見えると思うよ。思わず声を掛けたくなっちゃうっていうか…隙だらけというのか…」
「でも、さっき警戒心剥き出しって言ったじゃん」
「そうなんだけど。警戒心が剥き出しな分、ふっとした綻びに気が付くと、急に無防備に見えるっていうか…神崎さんなんかはそういう嗅覚が敏感だから…」
綻び?
俺は確かに人見知りだし、臆病だ。
そんなに警戒心をむき出しにしてるつもりもないし、自分が無防備だとも思えなくて首を傾げる。
そんな俺に、伊月さんは
「…俺はさ。一至君に幸せでいて欲しいんだよ」と、意味深な言葉を発した。
幸せでいて欲しい?
その言葉のはっきりとした意図も意味もその時の俺には分からなかった。
けれど、何故なのかわからないが、急に、とん、と突き放されたような感覚を覚えて胸の辺りが苦しくなった。
”幸せでいて欲しい”という事は少なくとも好意的な目で見てくれているというのは分かる。でも、その言葉は俺には他人行儀に聞こえて。
誰かと幸せになってね、と言われたような気がして。
自分でも知らず知らずのうちに目の前のこの人に期待していた自分に気が付いてしまって。
ふわふわと浮上していた気持ちが、羽が地面に落ちていくように静かに静かに心の底へと落ちて行った。そうか、伊月さんが俺の幸せを願うなら、伊月さんの中には俺はいないんだ。
そう思わなければいけない、と強く思い込んだ。
この人に期待しちゃいけないんだ、と。
何と答えていいのか、わからなかった。
でも、すごく落ち込んだかと言うと、それも違って。
この時は俺自身がまだ自分の気持ちに気が付いていなかったから、きっとショックも少なかったのだろう。
だから、あぁ、やっぱりこんなもんなんだな。期待してはいけないんだな。と心は冷めた反応を返しただけだった。
返事をしない俺に、伊月さんはどう思ったのか。
その話題には触れず「行こうか」と言った。
だから、俺もその言葉をなかったことにした。
大きなショックを受けなかったお陰でその日のデートはとても楽しかったし、帰りはとても名残惜しかった。伊月さんとはこうやって穏やかな関係でいればいいんだ。そんな風に思いながら、駅のホームで手を振る。
電車が通り過ぎる時に突風が吹いて、咄嗟に顔を庇った俺は伊月さんの心配そうな顔には気が付かなかった。
こうやって一瞬自覚しかけた伊月さんへの思いに無意識に蓋をして。
心の奥底へとそっとしまい込んだ。
太一とのことを問われたのは、伊月さんなりの心配なんだ。
あの人は優しいから、きっと俺を見ていると放っておけなくなるだけ。きっとそう。
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