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【香】第24話 十と十七
河埜家に来てあっという間に一年が過ぎ、伯父と里弓との生活にもすっかり慣れた夏の頃。成は小学四年生、里弓は高校二年生になっていた。
―――寝坊なんて、珍しい。
いつもの時間になっても降りてこない里弓を起こそうと、成はドアをノックした。
返答はない。
そのまましはらく待つが、ドアの向こうから一向に里弓の声が聞こえてこない。早くしなければ、里弓が高校に遅刻してしまう。
「里弓兄、入るよ。」
それ以上待たずに、成は返事のないドアを開けた。
エアコンのヒヤリとした空気と共に、成の目の前に広がったのは―――、白。
―――白い、紙?
白い紙だ。
部屋中に紙が散っている。
普段とあまりに違う様子に、ギョッとなった。整理整頓に無頓着な成でさえ驚く。
ましてや、里弓はペンのひとつも出したままにしない几帳面な性格をしている。そんな里弓がこんな真似をしたのか。
「これは―――、棋譜。」
一番近くに落ちている紙を拾うと、それは棋譜だった。他の紙にも視線を走らせ、全てが棋譜だと気付く。
たくさんの棋譜が散乱する部屋の真ん中には、里弓が座っていた。その光景に鳥肌が立つ。
「成?」
やっと成の存在に気付いたらしく、里弓がぼんやりとした顔でこちらを見る。でも、まだ夢でも見ているかのような顔だ。
制服姿の成を見ると、里弓は我に返ったように窓へ目を向けた。
「もう、朝か。」
里弓が外の光を見て、やっと眠気を思い出したように欠伸をする。
「里弓兄。もしかして、寝てないの?」
「ん?ああ、寝そびれたみたいだな。」
平然とした顔で里弓が言い、部屋の有り様を見て顔をしかめた。面倒くさい顔をしつつも、丁寧な触り方で棋譜を集め始める。
「相手の人、そんなに強いの?」
「強い?」
昇段がかかった対局の前だから、ここまでするのだろう。そう思って成は問うたのだが、怪訝な顔を返された。
「次に対局する人。強いの?」
「ああ。平田さんの事か?まあ、強いだろうが―――、違うぞ。今度の対局の為に寝なかった訳じゃねえよ。俺、段位に執着ないし。」
「えっ、」
「単に面白かったから、寝るのを忘れた。それだけ。」
里弓が棋譜を愛しげに見つめて言うので、成は愕然となる。
寝るのを忘れるほど将棋が面白い―――など、全く分からない。褒められたいから、構って欲しいから、そんな理由でしているだけの成に理解できる筈もない。
―――この人の世界は、将棋で出来ている。
自分とは違う才能を持った存在への感動と、落ちるような虚無感の両方を感じた。
今思い返せば、あの出来事で初めて里弓を遠くに感じたのだ。あれから距離は開くばかりで、見失った里弓の背中はいったい幾ら前にあるのか。
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