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【車】第35話

草野早百合(くさのさゆり)は二年間と少しを過ごした校舎を見上げた。星稜中学の制服を着るのは、今日で最後。もう明日から来ることが無いと思えば感慨深いものがある。 ここでは友人がたくさん出来たし、淡い恋らしきものもしたけれど、最後に思い起こされるのは、一人の同級生の事だった。 ―――ねぇ、君は。 はじめて会話した日の事を、柳小路はきっと覚えていないだろう。 ちょうど一年前の夏だった。 「プロ?将棋の?」 早百合が職員室で委員の仕事をしていると、すっとんきょうな教師の声が耳に入った。 将棋のプロ―――という、あまり聞き慣れぬ言葉に少しだけ興味を惹かれる。 そっと盗み見るとそこには、声を上げた女性教師の前に、見覚えのある男子生徒がひとり立っていた。 ―――確か、一組の男子。 前に中学生の将棋大会で優勝したとかで、この男子生徒―――柳小路が表彰されていたのを見た事がある。 早百合にとって、将棋など全く興味のない世界の話で、ハッキリと顔も覚えてはいなかったが間違いないだろう。 「はい。プロ棋士です。両立できる高校がよくて。西鷹のカリキュラムなど、詳しく教えて欲しいのですが。」 「そうなの。プロ棋士。プロにね。ええと、西鷹は―――。」 教師が途方に暮れたような顔をし、柳小路は涼しい顔をしている。 ―――綺麗な顔。 雪のように白い肌に、大きな目とピンクの唇が映える。男子の制服を着ていなければ、きっと女子に間違えられるだろう。 まじまじと柳小路を観察していていると、ある事に気付き、早百合は息が止まるほど驚愕した。 ―――え、まさか。オメガ? 半信半疑で見ていると、柳小路が教師から資料のようなものを受け取りこちらへやって来くる。 早百合はさっと視線を反らしなに食わぬ顔をしていると、斜め前の椅子が引かれた。 ―――やっぱりオメガ、よね。 大会で優勝するような生徒がオメガとは信じられないが、そうとしか思えない。初めて出会った同類を前に心拍は急上昇する。 柳小路はこちらの存在に気付いてないが、どうしても話がしたくて、早百合は意を決して口を開いた。 「ねえ、将棋、強いのね。」 資料を一心に読んでいた柳小路が、不思議そうに顔を上げる。キョトンとした顔は更に幼く、下級生に見えた。 「君、プロになるって聞こえて。」 オメガなのに―――という言葉は心の中でだけ呟く。 早百合の不躾な質問を拒否もせずに、柳小路は生真面目にひとつ頷いた。 「弱いけど、プロになるよ。」 真っ直ぐに返された意志の強い言葉に、早百合の心は揺さぶられた。オメガというだけで夢のひとつも持とうとしなかった早百合からすれば、価値観をひっくり返された気分だった。 その日から、柳小路を目で追うようになり、今日までの一年間、彼は早百合の心の支えになった。 まるで、宗教か何かのように。

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