46 / 101
【行】第46話 九歳になる少し前の話〈前〉
小学校から帰ってきた成は、こちらを見向きもしない母の横顔にひっそりと声を掛けた。
「ただいま。」
母の視線は昼寝をしている四歳の弟に注がれたまま動かない。
「お母さん、プリントとテストここに置いておくから。」
母から返事がないのはいつもの事で、成はキッチンのテーブルにプリント類を置いた。
昼寝中の弟を起こさないように忍び足で、静かに二階へ上がる。自分の部屋へ入ると、途端にほっと肩から力が抜けた。
出来の良い弟に夢中な母が、成の部屋まで来る事はほぼない。
「今日は、たくさん宿題出たなぁ。」
成は独り言を呟いて、小学校の宿題に取り掛かった。
柳小路の家は、とびきり優秀なアルファの男が産まれる家系だ。
祖父叔父、従兄弟や又従兄弟、九割の男性がアルファ。稀にベータはいるが、オメガはひとりもいない。
とびきり優秀な柳小路の家の男性は、麗しいオメガと出会い、結婚して、これまた頭の良いアルファの男子が産まれる。
優秀なアルファの父と麗しいオメガの母から、アルファとして産まれてきた成だが、何故か普通の能力しか持ち合わせていなかった。
一応はアルファだから勉強も運動も、人より少しだけ出来はする。しかし、柳小路の皆は、全国トップ十位に入るくらいの成績なのだ。
―――だから、仕方がない。
出来損ないのアルファ―――と、母から言われても仕方がない。
宿題を終わらせると時刻は四時四十五分で、成は慌てて塾の荷物を手にすると、部屋を出て階段を下りた。
「塾に行ってきます。」
リビングを覗いて声を掛けると、キッチンのテーブルが目に入った。プリントやテストは無くなっていたが、恐らく見てもいないのではないだろうか。
いくら小学校のテストで百点を取っても、母は眉ひとつ動かさずにゴミ箱へ捨てる。それに対して、今はもう傷付いたりはしない。
塾へ行こうと足を踏み出した時に、後ろから静かな母の声が追いかけてきた。
「成。」
「はっ―――、はい。」
母から引き留められるとは思わず、成は慌てて振り返った。返事した声が裏返り恥ずかしく、顔に熱が集まる。
「明後日、塾はお休みしなさい。河埜さんがいらっしゃるわ。塾の先生にきちんと欠席すると伝えるのよ。」
―――河埜さんって。
一瞬、従兄の河埜里弓の顔が浮かび、気持ちがふわっとなった。だが、里弓が来る筈はないから、きっと伯父の新士の事だろう。
「分かったのかしら?」
苛ついた母の声に、成は慌てて頷いて返事をした。
ともだちにシェアしよう!