50 / 101
【行】第50話
オメガになった事、里弓との事、草野の事、功と母の事―――気持ちを整理できないまま指せば、集中力を欠くのは当たり前。
成は敗戦を重ね、今期プロになれる可能性がなくなってしまった。
―――また来年頑張ればいい。
そう周囲の人たちからは励まされたが、成は苦笑いを返す事しかできなかった。
頑張ります―――と、言えない自分が不甲斐ない。
帰宅したら伯父に報告しなければならず、地面に沈みそうな気分になる。
将棋会館の廊下を重い足取りで歩いていた成だったが、前から歩いてきた人物が里弓だと気付き、ハッとなる。
「わ、っ!」
隠れなきゃ―――と、廊下を見渡すが、身を隠すような障害物はない。
一番近い場所にあるドアノブを回すと、すぐそこの部屋に飛び込んだ。幸い中に人はいない。ドアを背にして閉めると、新しい畳の匂いがした。
部屋の真ん中にテーブルが、部屋の隅には座布団が重ねられている。成が隠れた部屋は、どうやら控え室のようだった。
―――行ったかな。
ドアに耳を付けて聞いてみたが、向こうから特に物音はしない。
はぁ―――と、成は溜め息を吐いて、畳に膝を折った。若草色の畳は少しひんやりとしている。
プロ棋士になれなかった事を怒られるから、里弓を避けている訳ではない。そもそも里弓は大して怒ったりしないだろう。
逆なのだ。
きっと、甘やかされる。
里弓に慰められ、簡単に流れてしまう自分が嫌なのだ。
◇◇◇
「おい、起きろ。」
「ぅ、ぅん?」
ユサユサと体を揺すられ、成は重い目蓋を上げた。
眩しい。
蛍光灯の白い光が、寝起きの眼球へ攻撃的に突き刺さる。半分しか開かない目で見ると、里弓が呆れた顔で見下ろしていた。
「里弓、兄?」
「こんな所で呑気に寝てんな。ボケ成。アホ成。バカ成。」
容赦なく降り注ぐ言葉に急かされ、成は緩慢な動きで上半身を起こす。
逃げ込んだ部屋で、そのまま寝てしまったらしい。
「帰るぞ。ヨダレを拭け。荷物はこれだけか?」
「あ、うん。」
成はぼんやりと頷いてから、こてっと首を傾げた。
「里弓兄、何でここに?―――いっ!?」
突如、額を襲った鋭い痛みに悲鳴を上げる。里弓からデコピンされたのだ。
「何で?じゃねぇよ。今、何時と思ってんだ。『成が帰って来ん!電話も繋がらん!』って、親父が大騒ぎだ。心配させんな。」
「スマホは家に―――」
よく見れば里弓のシャツは着崩れ、額に汗を浮かべている。かなり探し回ってくれていたのだと分かり、成は素直に頭を下げた。
ついでに、最近、ずっと避けていた事も含めて、心の中でこっそり謝る。
「心配かけて、ごめん。」
「謝るなら、親父にしろ。ほら、立てよ。」
差し出された大きな里弓の手に、成がおずおず手を乗せると、ぎゅうっと握り返された。
暖かな手が沈んだ成の心を慰める。
やはり、甘えてしまう。
ともだちにシェアしよう!