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【馬】第54話

大して用事もないのに、将棋会館に来ていた。 成は受験生でもあるのだから、時間的にそう余裕がある訳ではない。 なにせ、今は夏で、受験生の夏といえば、普通は死に物狂いになっている時期だろう。やらねばならぬ事を見ないふりして、館内で小一時間ほど居座ってみている。 ―――が、気分は変わらず、何もしないまま階段を降りる事となってしまった。 無意な時間だ。 柳小路くん―――と、呼ばれて成は顔を声の方へ向けた。 「あ―――、江崎さん。」 「久しぶり。あの時以来だね。元気そうで何よりだよ。」 江崎晴目(えざきはるま)が将棋会館の一階の自販機の前にある椅子に座り、親しげに微笑んでくる。 ライバル宣言をされた立場だったが、発情して困っていた助けられ、何となく前ほど敵とも見れなくなってしまった。当然のように、苦手意識も薄くなるというもの。 「はい。先日はご迷惑をかけまして。助かりました。」 「体はどう?慣れた?最初は特に副作用、キツいでしょ。」 気さくに話してくる江崎の顔を、成はじっと見下ろした。改めて、美しい人だと思う。 美しい―――オメガの人。 「隣、座っていいですか?」 「どうぞ。」 許可をもらえたので、江崎の隣に腰を下ろした。苦手意識が薄くなれば、オメガ同士として何だか味方のような気にもなる。 ―――いや、味方では決してないのだが、 気が付けば、成の口からポロリと弱音が零れ落ちていた。 「薬の副作用って、ツラいですね。少しは慣れましたけど、倦怠感が酷いし、頭がぼんやりして、将棋に集中できなくて。」 言ってから、そうかと思う。 成はずっと痩せ我慢をしていたが、誰かに―――オメガである誰かに、本当は聞いてもらいたかった。同じ立場の人に、分かる分かると言って欲しかったのだ。 「そうだよね。」 江崎の優しげな声に、スッと肩の力が抜けた。 「柳小路くんはなったばかりだから、体が安定してなくてまだまだキツい筈だよね。しばらくは体を優先した方がいい。将棋も大事だけど、後からでもできる事だよ。安定して、合う薬が見つかるとかなり楽になる。」 「江崎さんはいつ頃―――あ、すみません。」 何歳の時にヒートが来たのか―――と、尋ねようとしたのだ。しかし、あまりに不躾な質問だったかと思い、成は慌てて謝った。 それに、気分を害した様子もなく江崎が笑う。 「いいよ。個人差あるから、目安になるか分からないけど。えっとね。初めてヒートになったのは十五歳、高校生になったばかりの時だよ。一年かかって安定して、プロになったのは十八歳、大学一年だね。」 「―――三年。」 「うん、三年は長いと思ったかな?でも、普通と違うからね、気長にやるしかない。安定しても定期的にヒートで邪魔されるし、副作用も全く無くなる訳じゃないからね。今だって、そうだ。」 困ったような、しかし、達観したような顔で江崎が話す。 「でも、焦る必要はない。全然、無理じゃないよ。将棋を一生続けていくつもりなら、焦らない方がいい。」 「一生。」 突然、目の前の扉が開いた気がした。 プロ棋士になる。 それだけしか成の頭にはなかった。頑なに、早くプロにならねばと。 「自分は六十まで棋士でいようと思ってる。だから、別に早くなくていい。急がなくていい。自分のペースで一歩でも前に進めたら―――、そう思って指してるよ。」 君だって大丈夫だよ―――と、江崎が聖母のように微笑んだ。
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