55 / 101
【馬】第55話
スランプを抜ける気がしている。
成の状態を、スランプと称するのはおかしいのかもしれないが、他に当てはまるような言葉を思い付かないので、そう呼んでいる。
それにスランプと言ってしまえば、それまでつかみ所がなく恐ろしく感じていたものが、陳腐な事に思えて気が楽になるのだ。
人は名前が付くと、何故か安心するものらしい。
実際には、何も解決してはおらず、ぼんやりした明るい予感だけがあるのだが、気分は確実に変わった。
―――江崎さんのおかげだなぁ。
「何が?」
いつ来たのか、里弓が廊下にいた。片手に立派な紙袋を下げている。貰い物のお裾分けに来たのかもしれない。
「伯父さん、いないよ。」
「知ってる。さっき、江崎さんって言ったよな?」
成に言ったつもりはなかったが、声に出ていたらしい。
「あ、うん。悩み相談を少し。」
「そうか。話したのか。」
安堵したように里弓が頷く。
里弓から言われた時に、あれだけ嫌がって見せたので少し気まずい。
「愚痴っちゃった。でも、ためになったよ。とっても。江崎さんて、よく分からないけど、優しい人だね。」
成は話ながら、止めてしまった手を再び動かした。乾いた洗濯物を畳んでいる途中なのだ。
里弓がテーブルに紙袋を置くと、ソファに腰を下ろした。
「優しいか。俺は未だにあの人が掴めないな。妙に冷めている所があるし。あ―――、そういえば、地方のイベントで将棋教室を一緒にした事がある。子供たちから老人まで、大人気だったな。いつか教室でもやりそうだ。」
「あ~、わかる。穏やかに教えてくれそう。」
江崎は美しい人形のような顔をしているが、人当たりは良い。いつも微笑んでいるような印象だし、話し方もゆっくり聞きやすい。
間違っても苛立ちを人に見せるような真似はしなさそうだ。
そのような事を成が話すと、里弓に後頭部を指で突かれた。
「俺への嫌味か?随分だな。」
「ま、さか!いつもご指摘いただき感謝しております!」
「嘘くせぇな。」
へりくだった甲斐もなく、里弓に一蹴された。笑い交じりだから、機嫌は良いのだろう。
「里弓兄、対局の予定は?」
「仙台。」
「じゃあ、次は不参加?タイトル取りに行かないんだ。」
「親父が出る。俺は牧原から呼ばれてるから、しばらく仙台だ。」
やはり親子対決をする気はないらしい。
牧原とは、仙台在住のプロ棋士で、里弓と同期だ。住む場所は遠いが、年に数回の交流がある。今回も勉強会か何かだろう。
タイトルを放り出してまで行くものではないと普通思うのだが、里弓にとっての優先順位は仙台行きが上なのだ。
「相変わらず、里弓兄は段位に興味ないんだね。」
「ないな。」
「何で?」
別に―――と、面倒そうに里弓が答えた。
ともだちにシェアしよう!