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【ト】第58話
突然だった。
予測をしていても何も対策は考えておらず、どうしようと気持ちばかり右往左往していたが、実際にはただ茫然としていただけだった。
中学が夏休みに入った日、品の良さそうな紳士の登場により、成の日常は大きく変わった。
「柳小路成さま、お迎えに上がりました。」
「いや、え、」
目の前で、壮年の紳士が頭を下げる。
柳小路成(やなぎこうじなる)はたじろぎ一歩後退した。物腰は柔らかで丁寧であるのに、逆らいにくい圧力がある。
「お支度はできましたでしょうか?」
「急に来られても困ります。」
「前もって、茜さまがお電話を差し上げた筈ですが。」
「ありましたが、」
三十分前に、だ。
九歳の時に親元を離れてから、一度も連絡がなかった母からの電話。ちなみに、茜とは母の名だ。
家に戻りなさい―――と、言われた。
記憶通りの声は、確かに母であった。
母である事は間違いないが、突然過ぎて頭がついていけない。
用件を告げると切られてしまい、成は電話を握り締めたまま三十分間、木偶の坊となり果てていた。
「こちらは承諾しておりません。」
「そうですか。困りました。」
少しも困った様子はなく紳士が呟く。
「お断りされる事もできますが、それですと、のちのち面倒な状況に措かれると思います。」
「面倒―――、ですか?」
「成さまは未成年でございます。河埜の家に住まわれていても、法律上は茜さまが親であります。手続きをすれば、成さまは柳小路の家へ強制的に連れ戻す事が可能です。」
淡々とした紳士の丁寧な言葉に、呆然となる。
法律的な事など全く分からないが、恐らく本当なのだろう。この紳士が後からバレる嘘を言うとは思えない。
思えないが、はい―――と、頷く事もできない。
「なので、河埜さまや里弓さまにもご迷惑がかる事になるかと。」
「えっ―――」
「法的手段に出れば、公になります。河埜さまは地位のある方で、特に里弓さまは有名なお方。世間が放っておきますまい。」
「そんな、」
この静かな河埜家へ、マスコミがアリのように群がる姿が頭に浮かぶ。想像するのは容易かった。
―――ダメだ。
伯父と里弓へ迷惑をかける訳にはいかない。
柳小路の家の事情に河埜家を関わらせたくない。
今日まで、本当に大事にしてもらった。その恩を仇で返すような真似は、絶対にしない。
紳士の言うように、答えはひとつなのだ。
「成さま、どうなされますか?」
成が心を決めたのを悟って、紳士が最終確認をしてきた。
視界の端に、将棋教室へ続くドアが目に入る。逃げ込みたくなるのを耐えて、成はそのドアから目を逸らした。逃げてもどうにもならない。
「支度を―――、支度をしますので、お時間を少しください。」
「はい。お手伝い致します。」
紳士の微笑む顔が、同情しているように見えた。
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