90 / 101

【詰】第90話

『いろ葉』で永岡と別れ、成は再び将棋会館へ戻ったのだが、里弓が仕事を終えたのは五時半を過ぎていた。 「夕飯にはまだ早いな。」 運転しながら腕時計へ視線を落とす里弓の横顔から、成はふいっと目を逸らした。 ―――おかしい。 里弓の顔が直視できない。ただ隣に座っているだけなのに、どうした事か。 成の顔面は暑いくらいに火照り、心拍数は尋常じゃない速さを刻んでいる。死亡レベルだ。存命の危機を感じる。 ―――おちつけ。いつもの里弓兄じゃないか。 「おい、聞いてるか?」 「っ!?」 成は顎を取られ、無理やり里弓の方を向かせられる。突然のアップに、うぎゃあああ!―――と、成は悲鳴を上げた。いや、上げたつもりだったが、実際には、はくはくと口を動かしただけで声はひとつも出ていない。 真っ赤な顔で硬直する成に、里弓が不思議そうに首を傾げる。 「おまえ、熱あるのか?顔、赤いぞ。」 里弓が更に顔を近づけようとする。額と額を合わせるやつだ。成は飛び退いて、ぶんぶんと首を横に振った。 「な、ないない!全然元気!ほら、暑いからじゃないかな、あははは。」 ―――ムリすぎる。 こんな顔も見れない状態で、番やその他もろもろの話をするなんて無理だ。出直して形勢を立て直した方が良い気がしてきた。 それでなくとも、出鼻を挫かれた為に、尻込みしてしまっている。臆病風が吹き荒れて、立っているだけで精一杯だ。 成がわざとらしい空笑いをしていると、里弓がペットボトルを放ってきた。顔面に当たるギリギリで受け取る。 「ちょっ!あぶなっ。」 「水分補給しろ。そして、寝ろ。」 「投げなくても。」 思わずブツブツと文句が出る。 普通に優しくしてくれればいいのに。そしたら、成だって素直に感謝できる。本当に好きなら、優しくしたいと思うものではないだろうか。 やはり番うんぬんは、成を柳小路の家に渡さない為の方便なのだ。本気にはしていなかったが、期待はした。もしかしたら、と。 現実を突き付けられれば、泣かない自信がない。 ―――なんか、もう、泣きそうだし。 「っていうか、僕、今日はもう帰ろうかなぁ~と思ったりしてるんだけど。」 「何でだよ。泊まっていけ。夕飯、どうする?熱中症なら、あっさりしたのがいいのか。」 「いやいや、出来れば日を改めて―――」 「成。」 逃げ腰の成の言葉を、里弓が静かに遮った。 ああ、これは逃げられないな―――と、条件反射のようにその声で悟る。 「帰さねぇから。」 里弓の淡い色の瞳にひたと見つめられ、時間が止まったような気がした。

ともだちにシェアしよう!