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【詰】第91話 十一と十八
母が逝き一年が経った頃、河埜里弓(かわのりく)は高校三年生になっていた。
受験生ではあるものの、必死さは皆無で、相変わらずの将棋三昧な日々。母の不在が当たり前になり、男三人の生活にも慣れた平穏な時間の中、転機は突然起こった。
「甘い匂いがする。」
この夜、従弟の柳小路成(やなぎこうじなる)の部屋で、いつものように里弓は将棋を指していた。成が寝る前にひと勝負付き合うのが、最近の日課になっていたのだ。
今夜の対局も終盤に入った所で、ふと仄かに香る匂いに気付いて、里弓は手を止めた。
甘い匂いを追って嗅ぐと、向かいに座る成が首を傾げる。
「え?僕?」
「成からだな。なんだろう?何か、甘いモノ食ったか?」
ずっと嗅いでいると、仄かな香りなのに喉が乾いてきた。なのに、何故かずっと嗅いでいたいかのような。
不思議な香りだ。
頭がぼんやりしてくる。
「うん。チョコドーナツ、食べたよ。」
「ちゃんと歯みがきしたか?」
「したよ。食べたのは夕方だし。もう匂いなんて残ってないって。」
「なら、服とかにチョコ、付いてんじゃねぇ?」
里弓がからかうように言うと、成が不満そうな顔になる。
「付いてないってば。パジャマに着替えてるんだから。」
「そうだよな。」
既に入浴を済ませてパジャマ姿の成を見ながら、里弓は腕組みした。
確かに、チョコレートの匂いとは違う気がする。香水な訳はないし、今日からシャンプーが変わったのだろうか。
―――それより、何か、体が。
体がおかしい。
暑い。いや、熱い。
これは―――。
身に覚えのある熱にギクッとなる。
己の体の状態に気付き、里弓は慌てて盤上に駒を置いた。
これで決まりだ。本当なら、もう少し遊んでやるつもりだったが、緊急事態だ。
「俺も風呂入ってくる。」
「え~!まだ終わってないのに?」
「ほとんど終わってるだろ。どうやっても俺の勝ち。」
「まだ道があるかもしれないじゃん。」
ぷぅと成が頬を膨らます。
その柔らかそうな皮膚に、目が吸い寄せられた。頭の中で警笛がなる。何に対しての警笛かまるで理解していなかったが、自分が正常な状態じゃないという事は分かった。
このまま成と二人でいたらダメだ。きっととんでもない事をしてしまう。
成を泣かせてしまう。
その腕を取り、逃げられぬよう押さえ付けて―――。
有り得ない想像に、ゾッとなる。
里弓はかつてない恐怖に襲われ、逃げるように立ち上がった。
「じゃあ、ここから逆転できるような、劇的な手を思い付いたら、風呂から上がって続きしてやる。」
「え~、無理だよ~。」
悔しそうに将棋盤を睨む成を置いて、里弓は足早に部屋を出た。
―――早く、成から自分を遠ざけなければ。
頭が混乱して、グラグラと揺れて、それだけしか考えられない。
走るように階段を降りると、下にいた父が不思議そうに顔を覗かせた。
「どうかしたか?」
「いや、」
里弓はろくに答えもせずに、救いを求めるように浴室へ飛び込んだ。
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