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【了】第97話

季節は夏から秋へ移り、銀杏の葉が燃えるように色づいた頃、柳小路成(やなぎこうじなる)は中学校の相談室を訪れていた。 予定の時間から二十分を過ぎたが、待ち人はまだ来ない。既に陽は傾き、西日が窓から射し込んでいる。 帰ろうかな―――と思った時、唐突に扉が開いた。 「いや~、悪い悪い。待たせたな。」 ノックもなしに入ってきたのは、待ち人である担任の古山俊輔(ふるやましゅんすけ)だった。 成の向かいの椅子を引き、どさりと座る。 「そういえば、柳小路、観たぞ。プリンスが出てたな。将棋プロ棋士特集。」 「ああ、出てましたね。」 古山は、従兄の河埜里弓(かわのりく)をプリンスと呼ぶ。成の耳にも、すっかり定着してしまった。 「さすがの里弓様、王子様。麗しい過ぎて、テレビ画面すら直視するの勿体無かったぞ。」 「先生、里弓兄のファン過ぎるでしょ。」 「おいおい、ファンなどと軽々しく呼ばれたくないな。もう、あれだ。信者だ。河埜教があったら入れてくれ。喜んで布教もするぞ。」 「―――バカじゃないですか。」 「教師に向かって、バカとは何だ。」 「だったら、教師らしい事、言ってくださいよ。」 「違うぞ。軽い冗談で、緊張してる生徒を和ませようと、―――で、何かあったのか?」 まごまごと言い訳をしていた古山だったが、誤魔化せないと悟ったらしく途中で投げ捨て、単刀直入に聞いてきた。軽く尋ねたように聞こえたが、顔を見れば自分への心配を滲ませている。 適当に見えるが、意外と心配性で、面倒見がいい先生なのだ。 「いえ。問題があった訳ではなくて、これを提出しようと思って。」 机に用意していたプリントをひっくり返し、表を上にして、古山の方へ滑らせた。 「ん?何のプリント―――」 「教室や職員室では人目があるので、相談室を使わせてもらいました。」 プリントへ視線を落として固まっていた古山が、わなわなと震えたかと思ったら、唐突に雄叫びを上げた。 「つ、つ、番だと~!?」 「先生、外に聞こえてしまいます。もう少し音量を下げてください。」 「ままま、待て待て。相手の欄に、プリンスの名前がある気がする。夢か。幻覚か。」 「幻覚な訳ないでしょ。はっきり里弓兄の名前が書いてありますから、目を逸らさず見てください。」 「う、ぉぉお~!」 古山が目を血走らせながら、『番申請書』のプリントを凝視する。かなり怖い。 随分と衝撃を受けている古山へ、成は淡々と説明を付け加えた。 「先日、役所に番届けを出しました。無事に受理されましたので、中学校にもプリントを提出します。」 「なんて冷静さだ、柳小路。先生ひとりテンション高くて寂しいわ。―――分かった。学校には提出しておく。」 「よろしくお願いします。」 「は~い。」 話は終わったと、古山がヒラヒラと手を振る。もっと根掘り葉掘り聞かれるかと思っていたので、成は拍子抜けして椅子から立った。 「あ、柳小路。」 成がドアに手を掛けた時に、古山から呼び止められた。振り返ると、ひどく優しい瞳とかち合う。 それが、いつもの古山らしくもなく、あまりに慈愛に満ちたもので、成は思わず息を飲む。 柔らかな橙の光の中で、おめでとう―――と、古山から祝福を告げられた。

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