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【了】第100話 ちょっと先の未来(一)
夏の日、成は胃を押さえながら将棋会館の入り口に足を踏み入れた。
これから、大事な対局が行われる。対戦相手は四つ上の大学生で、面識はあるが指した事はない。過去の棋譜を読んでは来たが、成とは真逆で守りの堅い慎重な将棋をする。
苦しい一日になるだろう。
―――大丈夫。勝てる。大丈夫。
自分を励ます言葉を頭の中で唱えていると、ポンッと肩を叩かれた。びくっと体を震わせ、大袈裟に反応してしまう。危うく上げそうになった悲鳴は、ギリギリで飲み込んだ。
「あ、ごめん。驚かせちゃった?」
珍しい女子の声に慌てて振り返ると、ここにいる筈のない人がそこにいた。
「―――草野さん!?」
驚く成に、草野早百合(くさのさゆり)が嬉しそうに笑う。直接、顔を見るのは二年ぶりだ。
「草野さん、どうして?」
「だって、大事な日でしょ。」
春日結仁(かすがゆいと)が出家した時期から、草野とは連絡を取り合っている。プロ入りがかかった対局がある事は、一昨日の昼に伝えたばかりだ。
まさかわざわざ来てくれるとは思わず、とても嬉しく感じる反面、期待を裏切る事になったらかなり申し訳ない。
―――元気そうだ。
スマホ上ではなく、この目で草野の陰りのない顔を見れて、やっと安心できた。
何年経とうと春日からされた仕打ちを、忘れる事はないだろうけれど、草野はちゃんと前に進めている。彼女は強い。
「来てくれて、ありがとう。」
成が礼を言うと、草野が急に笑顔を引っ込め、怒ったように腕組みをする。
「本当はこっそり応援するつもりだったのに、フラフラしてるから、声かけちゃったじゃない。」
「あ~、なんか胃が重くて。」
「あら、柳小路くん。あなた、そんなに小さい男じゃないでしょ。―――いえ、身長の話じゃないわよ。」
草野が真顔で要らぬ事を付け足すので、成はおかしくて吹き出した。
草野のこの態度は怒っているのではなく、成を心配しているのだろう。それを隠したいらしく、不自然なキャラになっている。
笑わせてもらったおかげで、力が抜けた。もう大丈夫だ。いつも通り盤上へ向かえる。
―――ありがとう。
「草野さん、行ってくるよ。」
「ええ、いってらっしゃい。柳小路くん。」
成は曲がっていた背中をしゃんと伸ばし、決戦の舞台へ向かった。
将棋にしろ、人生にしろ、道筋は無限にあるようで、実際には少ない。
選んだ道を進んでも行く手を阻まれ、曲がるしかない事ばかり。思い通りにいかない道を進み続け、しまいには立ち往生してしまう。
今は楽しさよりも、苦しさの方が多いかもしれない。
それでも、この道しか選ばない。
まるで飛ぶのが下手な鳥にでもなったように、足掻いてもがいて、成は今日を生きる。
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