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【桂】第17話
ちらっと部屋の隅を見て、成はまた机に向き直った。真新しい問題集が目の前にある。受験勉強の為に買っていたものだ。
しかし、問題文を読んでも集中できず、文字はするすると上滑りし、時間は無意に過ぎていく。
―――もう三日。
将棋をしていない期間の事だ。
河埜家で生活するようになって、駒に触らない日など今まで一度もなかった。高熱で寝込んでも、里弓が引っ越した時も、そして、伯母が亡くなった日すらも、成はいつも盤上にいた。
将棋を嫌いになった訳ではない。ただ駒に触れる事に抵抗がある。
もう成が触れてはいけないような気がして、手を伸ばせなくなってしまっている。
コンコン―――というノックの後に、成の返事を待たずにドアが開いた。
里弓だ。
「成、付き合え。」
「え、ちょっと、」
断りもなく部屋へ入ってきた里弓が、一直線に将棋盤を目指す。さっきもグズグスしていた通り、成は将棋を指す気分ではない。
こんな精神状態では、里弓に怒られる将棋になるのは目に見えている。
それに、何より気まずい。
当たり前だ。
あんな事をいたしておいて、いったいどんな顔をすれば良いのか。
―――むりむりむり。
記憶が蘇りそうになり、成は振り払うように焦って椅子から立ち上がった。
「僕、今、勉強をしてて―――」
「どうせしてねぇだろ。」
成の言葉をばっさり切り捨て、里弓が盤を部屋の真ん中へ移動させる。突っ立ったまま動かない成を見上げて、里弓が不機嫌そうに顎をしゃくる。
「さっさと座れ。」
今にもキレそうな口調で言われ、成は渋々反対側に正座をした。
激情に飲まれるか、自己嫌悪に襲われるか。そう思ったが、予想外に気持ちは落ち着いていた。
久しぶりだ。
目の前に盤がある。三日も近寄らなかったからか、堪らなく懐かしく感じる。
―――ああ、これ。
恐る恐る指を伸ばして触れた瞬間、成は水面から顔を出したような気になった。酸素が血液まで巡る。苦しくて仕方なかった呼吸が今は楽だ。
成は震える指で一枚ずつ駒を取り、丁寧に各々の定位置へ動かした。
「何枚でいく?」
「あ、うん。じゃあ、―――四枚。」
四枚―――と、成が言った時に、里弓がぴくりと眉を上げた。何枚とは、ハンデの事だ。いつも里弓が少ない駒で指しているのだが、最近は二枚で勝負を挑んでいた。
やる気の無さを叱られるかと思ったが、里弓は何も言わずに四枚の駒を下げた。
―――甘やかされている。
話す言葉は意地悪ばかりだけれど、里弓の本質は優しい。忙しい時だろうに、落ち込んでいる成を放っておけない。
そんな人だ。
あの時もそうだった。
将棋を教えてくれたあの日も、成は里弓の手で息を吹き返した。
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