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Lost/敵幹部×捕虜

■「お前は故郷を憎んでいるのか」 囚われの男。 「争い好きのケダモノが音楽を嗜むとは意外だったか」 捕らえた男。 ピアノの音色がする。 物悲しい、古びていて掠れた旋律。 胸の奥に仕舞われたいつかの思い出を静かに波打たせるような。 敵組織に囚われ、アジトとなる屋敷の地下室、硬い床の上でまどろんでいた式は目を瞑ったままその演奏に聞き入っていた。 容赦ない冷気に手足がかじかんでいる。 体の下に広げていた毛布に無理矢理包まって、窮屈そうに縮こまった。 誰が弾いているのだろう。 幹部の繭亡か? それとも中尉のセラか、下級兵士の誰かが……。 彼等が話していた祖国の歌だろうか。 式は夢と現実の狭間で一度も目にしたことのない風景を瞼の裏に見た。 地平線まで凍てつかせるような白銀の大地。 荒れ狂う風。 延々と降り続く雪。 頭上に果てしなく重たげに満ちる鬱々とした寒空。 彼等が決して忘れ去ることができないという故郷を。 「……」 先ほどよりも鮮明に演奏が聞こえて式は矢庭に覚醒した。 ドアが細く開かれている。 顔を覗かせているのは毛布を抱え込んだ、敵組織における紅一点のセラ中尉だった。 「ごめんなさい、起こした?」 小走りに式のそばへやってくると毛布を手渡してくる。 その際に互いの手が触れてセラは頬を赤く染め、次に眉根を寄せた。 「冷たいわ。今日は特に寒いから私の毛布を持ってきたんだけど……これじゃあ足りないわね」 「いいや、十分だ。ありがとう」 凛とした切れ長な双眸に見つめられてセラはくすぐったそうに微笑んだ。 「セラ、この演奏は」 「え?」 「誰が弾いている? 先ほどから聞こえているんだが」 式に問われたセラは低い天井に目を向け、依然として続けられているピアノの演奏に耳を傾けた。 「隹少佐よ」 意外な答えに式は目を見開かせた。 セラは次にタイトルを告げて「祖国の歌なの」と、教えてくれた。 「かつての争いを思い出す歌。死んでいった戦士達への鎮魂曲。埃塗れの古いピアノだから調律が合ってないけれど、却って趣があるかもね」 「そうなのか」 あまり長く引き止めるのは申し訳なく、式は上に戻るようセラを促した。 彼女は名残惜しそうに地下室を去っていき、後は掠れた演奏が冷え冷えとした地下室をしばらく漂った。 あの男がこんな風にピアノを弾くのか。 何よりも戦いを好みそうな野蛮な男が、こうも悲哀の旋律を出せるものなのか。 眠気が失せてしまった式の耳からやがてピアノの音色は途絶えた。 間もなくして地下室への階段を下りる足音が耳に届き、もしやと思って、式は唯一の扉を凝視する。 「今宵は眠れているか、式」 地下室を訪れたのは予想した通りの男だった。 「隹」 「こんな時化た夜でも酒があればマシなんだがな」 ミリタリーコートに両手を突っ込んだ隹が深靴を鳴らして式の前に行き着く。 いつもと同じ傲慢な笑みを浮かべて捕虜を見下ろし、いつもと違う眼差しに見上げられて、首を傾げた。 「どうした。この程度の寒さで風邪でも引いたか」 「……さっきの演奏は、お前が……」 歯切れの悪い台詞を隹は鼻先で笑った。 「争い好きのケダモノが音楽を嗜むとは意外だったか」 胸の内を容易に見透かされ、式が苦虫を噛み潰したような顔となる。 愉悦した隹は柱に寄りかかって両腕を組んだ。 「今宵は特に冷える。それで祖国を思い出した。身を切るような殺気じみた冷気とは程遠いがな。ここは生温いものだ。それでも。古傷を刺激する。血塗られた記憶を」 「お前は故郷を憎んでいるのか」 隹は嗜虐的に歪めていた顔つきを不意に自然な表情へ変えた。 「どうだろうな」 「……」 「赦しはしないが。棄て去ることは一生できないだろう」 それは囚われの式が初めて目にする隹の微笑だった。 一体、この男はどんな顔をしてあの演奏を奏でていたのだろう。 何を考えながら、何を瞼の裏に思い描きながら。 「セラからか?」 唐突に問われて、式は一瞬何を問われているのか理解できなかった。 「その毛布だ」 「あ……さっき、持ってきてくれたが」 「そうか。毛布代わりに添寝してやろうかと思ったが、それがあるなら十分だな」 「な、何を」 動揺の声音に隹は笑った。 柱から背を浮かすと踵を返して扉へ向かおうとする。 ジャケットの裾が翼さながらに翻る程の俊敏なターンだった。 「待ってくれ、隹」 式は思わず彼を呼び止めていた。 「お前は……さっき、その……何を思いながら……」 心に生じた言葉をそのまま吐き出そうとしたら突っかかり、式は何だか凄まじく居た堪れなくなった。 目線にすら迷ってぎこちなく俯く。 足元の毛布を握り締めて、この気まずさをどうにかして有耶無耶にできないかと内心周章した。 速やかに鳴った深靴の音に顔を上げようとしたら先に顎を掬われた。 「知りたいのか、式」 「……え」 「俺を知りたいか」 筋張った長い指先が唇の端に触れる。 途端に背筋に甘い震えが走り、戦慄いた式は慌ててその手から逃れようとした。 「お前を奏でてもいいか、式」 式は一瞬にして頬を紅潮させた。 跪いていた隹に抱き寄せられ、頑健な両腕に閉じ込められて、身も心も完全に逃げ場を失う。 髪を梳かれると慣れない感触に背筋が粟立った。 うなじに口づけが落ちると、息が上擦った。 「どこに触れてもお前はいい音を出す。弾き応えがあるな」 隹は式の耳元で囁いて悪戯に息を吹き込んだ。 いつもと違う。 いつもならば荒々しく肌を犯す手が今夜は緩やかな愛撫を綴っている。 首をすぼめた式は戸惑いを隠しきれず、頭上の眼をそっと見やった。 「どうした」 「……何だか、お前……」 ピアノを弾いていたからだろうか。 無心のひと時に荒くれていた波が凪いで、その振舞をも落ち着かせているのだろうか……? 「いつもと違う……」 「そうか。どう違う」 青く澄んだ泉を髣髴とさせる青水晶の双眸により間近に見つめられる。 不慣れな違和感に意識を攫われかけていた式だったが、今度は拒み難い欲深な熱の方へ誘い込まれつつあった。 隹はゆっくりと式に口づけを落とした。 「ン」 肉厚な舌がおもむろに唇を抉じ開けて中へ滑り込んでくる。 濡れた温もりが口腔に広がって式は切なげに眉根を寄せた。 下唇をやんわりと噛まれたり、時には歯列の裏を舐られたりする。 深い繋がりを強請られ、恐る恐る出し出すと、隹は遠慮なく潜めていた舌先に絡みついてきた。 こんなキスも初めてだった。 何だか、この上なく、どうしようもない。 体の芯が明け透けな火照りに徐々に食い尽くされて、おかしくなりそうだ。 「はぁ……ぁ……」 隹は唾液の鳴るキスを続けながら式の黒シャツのボタンを外した。 瑞々しい肌は心地よい手触りでいつだって愉しませてくれる。 病みつきになる感触は今宵も変わりなく、吸いつくように乾いた掌へ密着した。 「ンン」 脇腹をなぞられて式は身を捩じった。 大きな掌は次に背筋を撫で上げ、肌伝いに胸元へとやってきた。 淡く色づいた尖りの周りを指先でなぞり、何度か小さな円を描く。 もったいぶった手つきに式は喉奥で呻吟した。 「っ、ふ」 途端に唾液が溢れて下顎へと伝い落ちた。 微熱の伴う吐息も互いの唇の狭間から零れている。 地下室に沈殿していた冷ややかな空気を嫣然とさざめかせ、式の色めきに拍車をかけるような。 隹は薄目を開けて式を眺めつつ、指の腹で小さな尖りをゆっくりと押し潰した。 「ぁ……ぁっ」 濃密に交わしていた舌先が解ける。 式は隹の羽織るジャケットを握り締め、俯いた。 「いい音だ、式」 力を入れ、皮膚へ傾けるように突起を撫で回す。 指と指で挟み込んで緩々と摩擦し、甘い刺激を送る。 「っ、く……ぅ、っん」 「お前をもっと聞かせろ」 濡れそぼった唇の端を大胆な舌遣いで舐め上げられ、式は長い睫毛を痙攣気味に震わせた。 隹は小刻みなキスを瑞々しい肌にちりばめていく。 下顎から首筋へ、鎖骨の窪みを過ぎ、指先による愛撫で勃ち上がった胸の突起へと……。 「ひぁ」 ざらついた舌尖が淫らに纏わりついてくる。 唾液で湿らされる、解すような甘噛みに式は声を抑えられなくなった。 柱に上体を寄りかからせた隹に抱き着いた格好で欲深な快楽に呑まれ始める。 我を忘れて、柵しがらみも、互いの立場も、何もかも……。 寝息を立てる式に毛布をかけ、自分が羽織っていたジャケットもその上に重ねて、隹は床に座り込んだ。 もうじき夜明けだ。 窓のない地下室にいても、時間の流れは皮膚に触れる些細な空気の変化で把握できる。 乾燥した夜気に喉が渇いていた。 故郷で覚えた渇きはこんなものじゃなかったが。 「……ん」 式が寝返りを打った。 回想の波に意識を攫われかけていた隹は速やかに現実へ呼び戻され、誰にも見せたことのない笑みを片頬に刻んで、眠る彼を見つめた。 「お前を思いながら弾いていたとは言えそうにもないな」 薄闇のかかる安らかな寝顔にそう呟いて捕虜の額に優しい口づけを落とした。

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