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終わりの日まで/愛された男×愛した男
■ありふれた終末に、あなたと、ともに
硝煙漂う銃口を己のこめかみに押し当てて隹は告げた。
「式、お前は生きろ」
告げられた式は両腕を伸ばす。
その指先が届く前に隹は引き鉄を引いた。
不死なる者が世界を覆い、いずれ死せる者が結集して対抗する、そんな黙示録じみた日々が延々と続いていた。
しかしどんな時においても人間は階層や対立をつくり出す。
清らかなままで愛する者を、自分自身を存命させる術など、そうそうない。
穢れなき聖人など極僅か、一握り、それは突然変異にも等しい。
欲望と本能に殺されるまやかしじみた純潔で無垢なる良心を保つ術など、ないに、等しい……。
振り返った式は目を見開かせた。
たった一瞬の隙、その油断を狙うかのように不死者がすぐ背後に迫っていた。
やられる。
曇り空、すべての窓が割られたビル街の片隅、どこか遠くで響き渡る銃声と悲鳴と怒号と奇声。
恐怖で凍りつく式と静脈が全身に浮き出た青白い不死者の間に割り込んできたのは隹だった。
次の瞬間、すぐそばで鳴り渡った二度の銃声。
眉間を撃ち抜かれた不死者はどす黒い血を撒き散らして打ち棄てられていた車のボンネットに鈍い音を立てて倒れた。
「………………」
隹の片腕からは鮮血が滴った。
噛まれたのだ。
式を庇う際、己の腕を盾として。
隹は式を見た。
式は隹を見ていた。
不死者に噛まれた者は不死者になる。
「隹――」
硝煙漂う銃口を己のこめかみに押し当てて隹は告げた。
「式、お前は生きろ」
告げられた式は両腕を伸ばす。
その指先が届く前に隹は引き鉄を引いた。
まだ世界が穏やかな時を刻んでいた頃。
「結婚、おめでとう、隹」
昼下がりのカフェテリア、仕事を抜け出してきた式は久し振りに会う隹と向かい合ってコーヒーを飲んでいた。
短い髪に不敵な眼差し、長身に見合った縋り甲斐のある体つきをした彼は女の給仕や付近の女性客の視線を集めている。
パラソルの下、式は切れ長な双眸を瞬かせてそっと苦笑した。
「どうした?」
「なんでもない。今日は遠路はるばる何の用でこっちに戻ったんだ?」
「お前に会うためだ」
お前に会うため。
式は密かに胸を高鳴らせながらも、そんな昂揚感を懸命に押し殺し、コーヒーを飲んだ。
「それはどうも」
「結婚したって上は妻への配慮もなしに次から次に俺に仕事を押しつけてくる」
「仕事が嫌で彼女と一緒になったわけじゃないだろう」
「さぁ、どうかな」
「結婚式、行けなくて悪かった」
「形式上のものだ、気にしなくていい、ああ、だけど……やっぱりお前のそばは落ち着く」
「観葉植物みたい?」
「はは、そうだな。新鮮な空気を吸ってるみたいな、清々しいというか。お前、今からセラピストにでもなれよ」
「一度もそれは思いつかなかったけれど……あ」
「ああ、ほら、早速患者のお越しだ、先生?」
式と隹のいるテーブルに猫がやってきた。
母猫が可愛らしい仔猫達を連れ立って、他のテーブルの間を擦り抜けてやってきたかと思うと甘い鳴き声をあげた。
式はベーグルサンドに挟まれていた生ハムを手渡しで母猫に食べさせてやった。
「動物にも人にも好かれるな、先生?」
隹の言葉に式はゆっくりと首を左右に振ってみせた。
肝心な人には好かれないんだ。
どれだけ想いを募らせても、胸が張り裂けそうなくらいに求めても。
貴方は気づいてくれないんだ、隹。
「式、お前は生きろ」
告げられた式は両腕を伸ばす。
その指先が届く前に隹は引き鉄を引いた。
カチ、カチ、カチ
空しい手応えに隹は絶望的な怒号を上げて拳銃を道路に叩きつけた。
「隹」
「式、早く、早く離れろ」
変貌が始まった。
色素欠乏の如く肌が白に塗り替えられ、目は血走り、脈が加速する。
正常な鼓動を忘れた心臓が呪われた鼓動を開始しようとしている。
「俺にお前を喰わせるな、頼む、式」
式の切れ長な双眸から涙が溢れ出た。
人間から不死者へ生まれ変わろうとしている、その転生の苦痛と絶望に成す術もなく呑まれていく隹の姿に、鋭利なメスで心臓を一文字に裂かれているような痛みを覚えた。
隹、隹。
貴方が消えてしまうなんて。
俺は耐えられないよ。
この地上のどこにも貴方のいない日々を生きる意味などない。
「………………し、キ、ぃ」
夥しい蔦のように静脈の這う隹の顔を式は両手で挟み込んだ。
まるで天に祈りを捧げるように蹲っていた隹と同じく、膝を突くと、囁いた。
「貴方が好きだよ、隹」
聖母のように微笑んで目を閉じて。
式は隹に口づけた。
貴方じゃなくなった貴方に殺されるのはつらいけれど。
この想いを聞いてくれただろうか、最期に、貴方は……。
ねぇ、隹。
「………………式」
式は瞬きした。
さらに頬が濡れる。
すでに流れていた涙は唇にまで届いていた。
その味は不死者へ変わり行く隹の唇を伝い、彼の口内にまで訪れていた。
「……隹……」
顔を離した式の視線の先には隹がいた。
哀れなる不死者でもない、まだ世界が穏やかな時を刻んでいた頃と同じ姿の隹がいた。
言葉もなくじっとしている式を隹は抱きしめた。
強く、強く、強く。
二度と離さないといわんばかりに。
やっと、式も、その抱擁に応えた。
かけがえのない奇跡に微笑みながら、涙しながら。
ただ隹を抱きしめた。
どれだけ想いを募らせても、胸が張り裂けそうなくらいに求めても。
貴方は気づいてくれないんだ、隹。
「……そういえば昔、不思議なことがあったよ、隹」
足元で食事につく猫達を見守るのと同時に、頬杖を突いた式は遠い過去の記憶を何気なく手繰り寄せる。
「鳥篭で飼っていた白い小鳥が外に出ようとして、閉じられた部屋の窓にぶつかって……とても苦しそうだった」
窓を開けていればよかった。
逃げ出してもいいから、小鳥が傷つかないで済んだのなら、窓など閉めなければよかった。
掌に掬い上げた小鳥のか細い鳴き声に幼い式はどうすればいいのかまるでわからずに、ただ、温めた。
頬擦りして、撫でて、痛みがなくなればいいと思った。
小鳥は折れていたはずの羽根を広げた。
慌てて窓を開けば青い空へと飛び立っていった。
「やっぱり少し悲しかったけれど、でも。嬉しかった」
式は本当の自分の力に気づいていない。
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