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その唇は罪な林檎-2

本棟に満ちる白けた蛍光灯の明かりが夕闇を邪険に追い払う傍ら。 静寂と冷気と夜の気配に満たされた旧館。 暗がりにより黒く艶めくグランドピアノ。 小刻みに奏でられるのは鍵盤ではなく衣擦れの音。 「式」 式が意識を失い、周囲に居合わせた親切な通行人から救急車か警察を呼ぼうかという申し出がいくつかあった。 それら全てを丁重に断り、学園内の誰にも見咎められることなく古めかしい学び舎へ密やかに生徒を連れ戻した隹。 「起きたか」 長椅子で膝枕してやっていた式が二時間近い眠りから目覚め、隹は、寝起きで蕩けたような切れ長な双眸に笑いかけた。 「熱烈な睡魔と踊り明かしたな」 長い指で優しく髪を梳かれて式は何度も瞬きした。 心地いい感触は夢の産物ではなく確かに現のもので、そういえばあの男にいきなり腕を、逆に悪夢じみた現実が脳裏に蘇って、その目を大きく見開かせた。 急に身を起こしたかと思えば扉の方へ駆け足で向かおうとした式を隹は引き留めた。 細腕を掴んで容易に懐へ閉じ込める。 再び恐怖に巣食われようとしていた未完成な体に自身の両腕をしっかり絡ませ、まるで肌身離さぬよう、捕まえた。 「そう何回も逃がさない」 長椅子に腰かけた隹に後ろから抱きしめられて逃げ場を失った式。 「どうして、なんで」 口数が少ない生徒の震える声に隹は聞き惚れ、真摯に耳を傾けた。 「隹先生と、繭亡先生、恋人なのに、どうして僕にこんなこと、するの?」 「あいつは恋人じゃねぇよ」 「だって、キス、してた」 「あれはお前へのイヤガラセだ」 数十年前から隹はこの音楽室に入り浸っていた。 日中でも静かに冷えた旧館の片隅で眠りについていた式を見つけた瞬間、久方ぶりの深い欲に囚われた。 「なんで僕にイヤガラセするの?」 ああ、いちいち可愛い奴め。 俺を虜にした代償をいつかその身でもって未来永劫払わせてやろう。 「俺は昔からどうしようもなくひねくれてるんだ、式」 隹は式にキスをした。 どうしようもなく濃厚でも何でもない、ひどく聖人じみた清らかな口づけだった。 宵闇の狭間で三日月が平伏す。 夜よりも濃い闇を持つ彼等に恐れおののく。 「式、おいで」 学園内に侵入していた不届き者。 その手に翳すは購入してきたばかりと思われる不細工な殺意が込められた刃。 常緑樹に囲われた中庭で立ち竦んだ式を隹は呼び寄せた。 急に逆巻いて咆哮をあげる風、葉が乱れ舞う中、怯える生徒を片腕に抱いてソイツと対峙した。 「警告したのにな。余程罰がほしいのか」 常軌を逸した相手を前に隹は鋭く笑った。 中庭を仄かに照らす外灯が点滅を始めた、それはまるでカウントダウンさながらに。 人間らしからぬ五感がさらに鋭敏に冴え渡る、白昼よりも夜に漲る妖気を全開にして。 鋭角な月夜に翻った漆黒。 容赦ない風に怯むことなく猛々しく左右に広がったそれは。 「それならくれてやる。地獄(ゲヘナ)で後悔しろ」 片翼は守るべきものの絶対なる盾。 片翼は外敵と見做した相手に無慈悲な裁きを下す。 正に標的を定めて鎌首をもたげ、狂気の奴隷と化した不届き者に振り下ろされようとした瞬間、だった。 「先生」 恐怖を超える驚きにただ呆然としていたはずの式は笑いながら怒り狂う隹にぎゅっと抱きついた。 「隹先生、だめ、だめ……」 青水晶と化した眼をひたすら見つめた切れ長な双眸。 優しい健気な生徒の心に触れた悪魔の美術教師は今初めて赦しを知る。 もちろんタダで帰すほど寛容にはなれなかった、が。 「困った奴だ、隹」 嘘のように凪いだ風。 何事もなかったかのように静まり返った中庭にやってきたのは繭亡先生だった。 盾と矛なる翼を仕舞い、自分の力で立てないでいる式を抱っこした隹の元へ悠然と歩み寄った。 豊潤なワイン色に満ちた眼差しが向ける先には自分の名前を含め何もかも忘れてしまった赤子同然のソイツがいた。 「致し方ない。交番へ連れていこう」 「ついでに顔、潰しといてくれ」 「は?」 「式が絡まれたからな。通行人の誰かがソイツの顔を覚えてるかもしれない、後々面倒だろ」 「それならいっそ殺していいか、連れて行った私が疑われる」 「だめ」 隹の胸に顔を埋めながらも戯れ同然の裁きを拒んだ式に、繭亡は、微苦笑した。 大人しく抱っこされている生徒の頭を意味深なくらい優しい手つきで撫でる。 「式、今宵のことは誰にも言わないように」 生徒の足音が遠ざかったはずの放課後の旧館に響き渡る旋律。 「きれい」 古めかしいグランドピアノの鍵盤上を躍る指先は隹のものだった。 膝上に式を座らせて世に出ることのなかった哀しき音楽家の美しい曲を弾いていた。 「亡き恋人に捧げるセレナーデだと」 「うん」 「意味わかるのか?」 腕の中で素直に首を左右に振った生徒に教師は笑った。 「式」 名を呼べば素直に顔を上げた式に隹はピアノを奏しながらキスをする。 蛇は封印して。 与える側だったこの俺が溺れるほどの。 いつの日かその奥深くに潜む聖域まで残さず全て。 焦らせば焦らすほどこの罪の甘味は増すに違いない。 「もう、帰る」 「抱っこタイム延長だ、式」 「宿題、算数と漢字、しないと」 「貸せ、俺が全部解いてやる、その前にもっと味見させろ」 悪魔先生に魅入られた生徒。 鋭く不敵な隹に自分もまた無意識に惹かれている幼い式は、いつの日か、禁断の恋を知る。

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