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Six-2

「何だ、あれ」 「すごくおいしそう」 そんな会話が聞こえたかと思うと背中の重みが消えた。 華奢なパンプスも隹から瞬時に遠ざかり、突然現れた、いやに食指をそそる獲物へと標的を変える。 かつてない狂気紛いの食欲に我を忘れた二人は人間の仮身を捨てて正体を現した。 体中に無数の亀裂が入り、滑りを帯びた黒い皮膚が外気に曝される。 貝殻骨として収められていた、骨が剥き身の翼を凶器の如く闇に翻し、慈悲を知らぬ獣の形相へと変貌する。 二人は人間の血を絶対の好物とする吸血種、ヴァンパイアへ一瞬にして姿を変えた。 突っ立っていた男は容赦ない狂気でもって襲われた。 声もなしにその場へと打ち倒される。 隹は悪夢じみた展開に眩暈を覚え、必死にそれを振り払い、起き上がった。 すぐそばに落ちていた銃を掴んで駆け足で高架下の惨劇へと走り寄る。 理解する前に撃て。 あいつ等はどう見たって人間じゃない。 隹は両腕を伸ばして銃を構えた。 相変わらず前髪で男の顔は見えない。 醜悪な二体の獣は青白い首筋に深々と牙を立てて血を貪るのに夢中になっている。 悲鳴を上げない彼はもう死んでいるのか。 拳銃のトリガーにかけた指を力ませようとした隹の耳にそれは不意に届いた。 「や……めろ」 閉ざされていた唇から苦しげに拒絶の言葉が零れ出る。 「俺に当たる……っ」 隹は男の半身に覆い被さるヴァンパイアへと銃口を向けた。 弾丸が貫通した場合、男の左腕が傷つくだろう。 彼をこのまま死なせるわけにはいかない刑事なりの苦肉の策として隹は引き鉄を引こうとした。 が、獰猛な動きで払われた片翼により発砲する前に刑事は吹っ飛ばされた。 頭上の高架鉄道を電車が走り抜けていく。 数少ない外灯の光が一斉に点滅した。 生温い風が人気のない辺りを吹き抜ける。 「……グワァッ」 男のものではない動物じみた咆哮を耳にし、蹲っていた隹は何とか身を起こした。 男に覆い被さっていたはずのヴァンパイアが彼の両脇で身悶えていた。 首元が血だらけの彼は逃げ出すでもなくじっとしている。 剥き出しの傷口は皮膚が捲れて血肉を覗かせており、痛々しい。 裂かれた白いシャツにも血が飛んでいた。 「まサカ、お前……そンなバカナ……」 全身を蒼白の炎に包まれ、皮膚が炙られて急激に溶けていく中、断末魔にも似た醜い声が夜の片隅に落ちた。 「……キラーの血ハ……途絶エた、ハズ……」 呆気にとられる暇など隹にはなかった。 二度取り落とした拳銃を掴み、あっという間に灰と化したヴァンパイアの残骸を踏み潰し、トリガーに指をかける。 狙うは生き残りの男一人。 「何者だ、お前等」 隹に問われた男は小さくため息をついた。 上半身をゆっくりと起こして背後のフェンスに寄りかからせる。 刻みつけられたはずの無情な牙の痕が消え失せていた。 「こいつ等……ファングか?」 「……」 「それともお前がそうなのか?」 男はまたもゆっくりと片腕を上げた。 隹が素早く拳銃を構え直しても我知らずといった風に、細く長い指先で前髪を掻き上げる。 切れ長な、凛とした双眸が外灯の薄明かりを浴びて淡く光った。 青白い肌に飛び散っていた自分の血を手の甲で無造作に拭う。 赤い唾を忌々しげに傍らへ吐き捨てた。 「俺は違う。そいつ等も……多分違う」 見覚えがある。 最近、どこかでこいつを目にした。 どこでだろう。 一体、いつ。 「命の恩人に銃を向けるのか、あんた」 男が勝手に立ち上がったので隹は彼を睨みつけた。 男は微かな笑みを片頬に浮かべると、虚空に掲げた手でピストルのジェスチャーをしてみせた。 「撃ってもいいぞ」 「……」 「丸腰だと撃ちづらいだろうから、な」 嫌な奴だ。 隹は舌打ちした。 男は相変わらず微笑んでいる。 銃口に見立てた人差し指は的確に隹に狙いを定めていた。 「あ」 そのまま男は妙に緩やかな速度でその場に崩れ落ちた。 隹は束の間棒立ちとなり、我に返って、警戒は怠らずに彼へとにじり寄った。 横向けに倒れている男の懐に足先を差込み、軽く揺らす。 男はなされるがまま軽く揺れただけだった。 閉ざされた双眸が開く気配はない。 「おい」 革靴の先で仰向けにさせると小さく呻いた。 死人のような顔色の悪さだが生きてはいるようだ。 気がつくと雨は止んでいた。 街の方から遠吠えの如きクラクションがか細く聞こえてくる。 「そうだ、こいつは」 彼をいつどこで見たのか思い出した隹は青水晶の双眸を見開かせた。 濡れた地面に降り積もっていた灰は溶けて消え、生温い静寂が何事もなかったかのように夜気へと絡みついていた。 死に限りなく近い痛みの海に溺れる。 頚動脈を切り裂かれて温かな血液が大量に溢れ出、喉にまで満ち、耳障りな濁音の悲鳴が上がった。 肉を噛み千切られて鈍い音が立つ。 全身が痙攣して歪な震えを刻む。 吸血鬼の飢えた牙に我が身を犯されながらも懸命に腕を伸ばした。 「駄目だ、俺の血は……」 お前にとって毒なのに。 切れ切れに吐き出された言葉を聞くと下顎を真っ赤に濡らした吸血鬼は美味なる獲物に笑いかける。 「お前を食いながら死ねるのなら本望だ、式」 その男は世にも醜く残酷な化け物達を相手に遠い昔から戦い続けているという。 「俺の血は奴等が願って止まない餌であるのと同時に毒でもある」 ヴァンパイアからキラーと呼ばれる特殊な血を継ぐ一族の末裔であり、化け物達が唯一の天敵とする存在。 「俺も半分化け物のようなものだけど……な」 かつて分かり合えたはずの友を逃れられない宿命により喪った男は、時折寂しげな眼差しとなって、虚空を見つめることがあった。 彼の絶望をしばし垣間見る隹は、そんなとき、どこか重たげで鬱陶しい痛みを胸に持て余した。 「……ファングは、奴は」 「あれは間違いなく吸血種だ。匂いがする。狡猾に生き永らえてきた、獣よりも残虐な匂いが」 血潮さながらの夕陽が降り注ぐ警察署の屋上、隹は手摺りにもたれる男を横から眺めた。 古びたファイル中の色褪せた写真の一枚に彼は容疑者として写り込んでいた。 騒がしい雑踏の音色が地上を満たす中、彼は冷え冷えとした厭世的なる影を纏って、今、写真と同じ姿でそこにいる。 切れ長な双眸が赤い日差しを反射し、薄い光を帯びていて、何だか妖しげだった。 「お前の名前は?」 彼は何故だか少し驚いたような顔をして隣に立つ隹を見た。 「……俺は式だ」 そう、式。 そんな名前だったかもしれない。 隹が手を差し出すとその双眸はさらに大きく見開かれた。 「よろしくな、式。一緒にファングを見つけ出してくれよ、相棒」 隹の言葉に式は微かな笑みを浮かべた。 憂いを孕んだ影が夕陽におもむろに溶けていく。 ただ純粋に、綺麗な顔だと、隹は掌を重ねながらそう思った。 やがて朱に染められていた空は夜の訪れにより貪欲なる闇に呑まれる。 恐れを捨て去り闇に刃向かう眼差しを携えて彼等は牙持つ悪魔に挑む。   二人が共に歩む戦いは、今、始まったばかりだった。

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