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Into you/上から目線彼氏×不憫彼氏
■恋人同士の話
雨が降り出した。
部屋の中に流れる物憂げな雰囲気にまるで追い討ちでもかけるかのように、虚ろに雨音が響く。
「もう耐えられない」
苦しげに押し出される式の言葉をベッドに腰掛けた彼は黙って聞いていた。
「もう貴方を信じることができないんだ」
薄闇に包まれた部屋の中央に佇む式は項垂れ、足元に向かって呟いた。
閉ざされたブラインド越しに外灯の明かりが差し込んで覚束ない陰影をフロアにつくっている。
意味もなくそれを見つめていたらかつての回想が式の脳裏を横切った。
『隣、空いてるか?』
宵のバーカウンターで彼との出会いは始まった。
その日に見た三日月を彷彿とさせる鋭い双眸が視界に鮮明で、口元を飾る笑みが不敵で、何気なく目線を移した瞬間に式は心を囚われた。
出会ったその日に相手と体を重ねたのは生まれて初めてだった。
日常が色鮮やかに彩られるほど惹きつけられたのも、ああも激しい欲望に貫かれたのも。
胸の内が血に浸されるような苦しみを覚えたのも。
「俺にはもう無理だよ、隹--」
「俺を嫌いになったか」
ベッドのスプリングが軋む。
彼が近づいてくる気配に式は身を硬くし、返事もできずにその場に凍りついた。
「俺が憎いか?」
顎を掬われて否応なしに目線が浮上し、すぐ真正面に迫る双眸と対峙する羽目になった。
「俺なんかと出会わなければよかったと、後悔してるのか」
「隹」
「もうキスもしたくないか?」
式は隹から顔を逸らした。
だが彼は距離をとろうとする体を悪びれる風でもなくいとも容易く抱き寄せ、その唇を強張る唇へと重ねた。
突っ返そうともがく両手の力をものともせずに、自分より細い腰を両腕できつく締めつけ、口腔で逃げがちな舌先に追い着くと器用に絡ませ、濡れた微熱を注いだ。
式の呻吟する声音が次第に強くなりつつある雨音へと溶けていく。
口づけは解かずにそのままベッドへ彼を押し倒し、隹は、水音を滴らせながら囁いた。
「俺は今、お前を抱きたくて堪らない」
密やかに細められた青水晶に無視できない不埒な熱が満ちていくのを式は痛感した。
同時に、快楽に流されていく自分自身に無性に吐き気を覚えた。
玄関先でドアの開閉音が響く。
ベッドに横たわっていた隹は気だるそうに瞼を持ち上げ、まだあられもない余韻が残るシーツに何気なく手を滑らせた。
あいつ、傘は持ってきていたのかな。
うるさい雨音に促されて隹はそんなことを思い、微かに湿った、式の喘ぎ声を惜しみなく吸い取ったシーツをなぞってみた。
結局、あいつは俺を望んだ。
そうするように仕向けたのは少々酷だったかもしれないが、本当に嫌ならば真っ向から拒絶して真っ先に部屋を飛び出していれば済むことなのだ。
嫌なわけがない。
どれだけ裏切られようとあいつは俺に縋りつく。
「耐えられなくなってもいいさ、別に死ぬわけじゃない」
背中に刻まれた彼の爪痕による鈍い痛みに隹は微かな笑みを浮かべる。
その時だった。
屋外で不意に尾を引く車のブレーキ音が雨音を一瞬掻き消したのは。
隈なく濡れた石畳の上にガラスの破片が飛び散っている。
外灯に追突した車はボンネットが拉げ、中の運転手は気を失っているのか外へ出てこようとしない。
付近の住人や通りすがりの人間は車の中へ声をかける者もいれば携帯電話で救急車を呼んでいる者、ただ突っ立っているだけの者もいた。
傘を持たない式は事故現場の手前で同じく傘を手にしていない隹と向かい合っていた。
「式」
傘を差していないどころか隹は裸足であった。
アパートから走って出てきた彼は肩で息をしており、間近に事故を目撃して驚いていた式はさらなる動揺を味わっていた。
「大丈夫なのか」
それは式が初めて目にする隹の混乱だった。
呆気にとられている自分以上に動じているその様に式はたどたどしいながらも返事をする。
「ああ、車がスリップして、そこに追突して……俺は別に何とも」
「そうか」
間もなくして救急車が到着する頃、隹に願われて式は再び彼の部屋へと戻った。
ずぶ濡れになった体を熱いシャワーで一緒に温めて、つい先ほどまでうるさく軋んでいたベッドの上でただ抱き合って一夜を過ごした。
こんなに満たされた夜も、式は、生まれて初めてだった。
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