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アイアン・ブライド~鉄の花嫁~-2
何でこんなところにいるんだ。
式は必死で思い出そうとする。
しかし不慣れな陶酔感に邪魔されて思考がろくに回らない……。
「目が覚めたか、式?」
瞼を開ければ顔を覗き込んでいたのは青水晶の目をした妖魔だった。
いやに近い距離で……大体、ここはどこだ……こんな広いベッドは城にもないぞ……。
『皇子、飲んでは駄目です』
そうだ……そばにいた人懐っこい魔物が盃を皇子に差し出してきたから……。
『勧めた酒を断るとは無粋な。ろくな王にならんな』
そうだ……こいつ……この最も不敵な妖魔に中傷を受けて、腹が立って……。
『ならば俺が飲む』
飲み干した瞬間、意識が……。
「人外の俺達が食らう酒を一気に飲むとは馬鹿な人間だ」
未だ朦朧としている式に隹は唇の片端を吊り上げる。
滾々と湧き出る泉を彷彿とさせるような、見れば見る程美しい眼だった。
式は状況を忘れてそんな妖魔の目に見惚れた。
おもむろに狭められていく隔たりを何ら不審に思うでもなく。
そして隔たりは無に帰した。
酔いで心身がやや麻痺している式はしばし密着した唇の感触を他人事のように感じていた。
尖らされた舌先が口腔に滑り込んで不埒な微熱を注ぎ込んでくる。
それでも式はまだこの状況が飲み込めずに、ただぼんやりと、繊細な刺繍の施された天蓋つきのベッドの真ん中で力なく寝そべったままでいた。
酒の酔いも手伝っていたが、実際のところ、青水晶の眼に中てられていた。
こんなに魅力的なものを俺は他に知らない……。
今は意味深に細められている妖魔の双眸に式は瞬きも忘れて釘づけになっていた。
「……!」
しかし、やっと、式は把握する。
その瞬間に彼は翳した。
上衣の袖口に潜めていた小型の刃を。
振り翳された刃は空しくも虚空を切り裂いた。
「口づけの最中にとんだ真似をする」
床ではなく天井に着地した妖魔の隹は相変わらず不敵な笑みでもって式を愉しげに見下ろした。
「無粋な行為が余程好きなのか、お前」
「皇子はどこだ!!」
天蓋を払い除けて床に降り立ち、式は隹を睨め上げる。
視界の端で薄暗い部屋の中をざっと見回して投げ捨てられた己の剣も確認した。
矢鱈と豪勢なベッド以外に何もなく、何やら妙な雰囲気が漂っている。
だが今は戸惑っている余裕などなかった。
「皇子はどこにいる!」
天井から床へと半回転して舞い降りた隹に式は凄まじい剣幕で問い質す。
先程までとは打って変わった様子に隹は益々笑みを深めた。
「一角の子供と遊んでいるぞ」
そう答え、いつの間に手にしていた古めかしい手鏡を式へと投げた。
逆手に翳した刃はそのままに素早く空中でキャッチし、覗き込むと、皇子が角を生やした仔馬をよしよしと撫でている。
場所は酒宴が繰り広げられていた遺跡の内部のようだ。
「偽りの光景ではないだろうな?」
「何で偽りの光景をお前に見せる必要がある。それをして何の意味がある。何の得がある?」
「妖魔の考えは与り知れない」
「フン。無粋というより不躾だな、お前」
鏡面に写し出された皇子は確かに作り物には見えなかった。
それは以前凍りつきかけていた式の心を溶かしてくれた笑顔と同じものだった。
主の無事を確認した従者は無尽に放出していた殺気を些か収めて妖魔を見やった。
「一口で済ませればいいものを勝手に一気に煽って失神したお前を皇子が案じるものだから、わざわざこの部屋を異空間にこさえ、俺が介抱してやったんだ」
「……そうだったのか」
「そんな俺に刃を振るうとは、とんだ恩返しを喰らうところだ」
「……そうだな、確かに……いや、すまなかっ……いや、でもどうして」
口づけされる必要があるというのだ。
式の訝しげな眼差しを受けて隹は一歩、彼へと近づいた。
式は咄嗟に身構える。
敵意はなさそうだが人間とは異なる妖魔に気を許す事はやはり躊躇われた。
依然として刃先を向ける式に隹は不快そうにするでもなく、革帯ごと外されていた彼の剣を拾い上げた。
「そんな心許ない刃より剣を向けられた方が却って落ち着く」
俺はやはりとんでもない不躾な真似をしているのだろうか。
介抱してくれた相手に勘違いで激昂し、刃を向けたまま……人ならぬ妖魔とはいえ知性があるのだから感情だって持ち合わせているだろう。
怒りを覚えてもいいはずだ。
それに、あの口づけは妖魔の間では挨拶みたいなものなのかもしれない。
「……すまない、ありがとう」
己の武器を受け取った式は隹の眼を見、素直に非礼を詫びた。
「その目、綺麗だな。宝石みたいだ」
「お前も綺麗だ」
「……」
「俺の花嫁に相応しい」
は?
今、何て言った?
男の俺が自分の花嫁に相応しいと言ったのか?
「剣で着飾って刃の花束を持て。血化粧がさぞ似合うだろう」
式が問い返す暇もなかった。
剣帯の装着を終えた腰元を引き寄せられて隹と自分の正面が重なる。
突然の行為に動じたが、掴んだままの刃を振り仰ぐのは逡巡のため気が引けて足元に向けておいた。
「指輪の代わりに俺の刻印を授けてやる」
そう告げるなり隹は式の左手の薬指を口に含んだ。
キリリ、と痛みが走る。
自分にとって余りにも現実的でない言動の数々に式はどう反応していいのかまるで判断がつかずに硬直していた。
呆然自失に近い状態にいる式の額にキスをして隹は言う。
「俺は隹だ。いずれお前を迎えにいくぞ、式」
暁の森に微かな朝日が差す。
魔物達は苦手な眩さに嗚咽を上げて外界へと戻っていく。
正常な人間界の時間が流れる、唯一のひと時であった。
「……」
緩々と瞼を持ち上げれば青水晶の残像が不意に脳裏を過ぎり、式は瞬く間に覚醒した。
「式、おはよう」
大木の根元で急に飛び起きた式に目を見張らせる事もなく皇子はにこやかに従者へ挨拶した。
当の従者は珍しく落ち着かない様子で周囲を見回し、頻りに目元を擦り、やっと最愛なる主を視界に写した。
「あ、皇子……!」
「ねぇ、この仔馬、もらったんだ。とても可愛いよね。角が生えてる」
微かに注ぐ朝日に照らされた真っ白な毛並みを撫でながら皇子はさも嬉しそうに笑う。
仔馬と呼ばれた一角獣も一晩ですっかり懐いたらしく、小柄な体に擦り寄っていた。
「もらったとは……一体誰から……」
「青い目の妖魔から」
青水晶の目を持つ妖魔の隹。
暁の森の懐で不可思議な悪夢からなかなか脱しきれずに式は光り輝く眩い光景をただ眺めていた……。
「それ何だよ、式」
庭師はぎょっとして食べかけのエクレアを思わず握り潰した。
「皇子の武者修行の最中、蛇に咬まれたそうだ」
「うへぇ……くっきり跡が残ってるじゃねぇか、気持ち悪ぃ!」
「おい。カスタードがもったいねぇぞ。床に落ちたのも食えよ」
厨房の奥で昼下がりのおやつを食べていた面々はいつになく言葉数の少ない式の手元に注目しっ放しであった。
その左手の薬指に残るは痣の如く刻まれた妖魔の噛み跡。
本当の事を言えるわけがない式は蛇に咬まれたと最初に気づいた執事の赤穴に嘘をついたのだった。
「だけどそれってさ、指丸ごといっちゃってるよな!?」
「お前、食い千切られなくてよかったな」
「しかしそのような跡が残るとは面妖な。一体どんな蛇だったのだ?」
隣にいた執事の問いかけに式は低い声音で答える。
「世にも狂的で不可解な蛇です……」
式の答えに面々は顔を見合わせた。
多少の毒が体内というより脳に残っているのでは、と内心気の毒に思いつつ、あまり語りたがらない皇子の第一従者を配慮して次の話題に移る事にした。
「なぁ、そういや皇子が連れて帰ってきた馬って角生えてんだぜ。すごくね!?」
「あれは魔獣だろう。ああいうもの達を勝手に連れ帰ると親が怒り狂って災いを齎すと言われている」
「……おい」
「いや、だが皇子はもらったと言っていた。しかし誰から譲り受けたというのか」
「……おい」
料理人の二度目の呼びかけに執事と庭師は話をやめた。
見ると、式の顔色が相当悪くなっている。
どうにも暁の森の話自体がタブーのようだ。
優しい先輩方が明日の天気はどうなるだろうと話題を転じたのにも気づけずに、式は、左の薬指を苦々しい顔つきで見下ろしていた。
最悪だ。
何だ、これは。
刻印? 花嫁?
何もかもが馬鹿げている……。
何よりも最悪なのは自分自身があの青水晶を片時も忘れられずにいるという事だ。
中てられているなんてものじゃない、まるでこれは……ああ、考えたくない。
断じて俺はあいつを待っていたりなんかしない。
妖魔の隹に心を攫われてなどいない。
「うげっ、式、手がベタベタだぞ!?」
「指についたのも全部啜って食えよ、もったいねぇ」
「何だか居た堪れないな」
最近放心気味の式に先輩方はため息をつかざるをえなかった。
そして時は来た。
「迎えに来たぞ、式」
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