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アイアン・ブライド~鉄の花嫁~-3
戦の時代が訪れていた。
領土争いに巻き込まれた我が国のため、まだ少年でありながら跡目を継いだ皇子のため、信頼し合う同胞のため、式は敵と味方の血に塗れながら剣を振るい戦っていた。
第一従者の身であり皇子のそばにいるべきところを敢えて離れ危険な前線に身を置いたのは少しでも敵を外に留め内へ入れたくなかったからだ。
「本当にそれでいいのか、式」
赤穴に問われた式はしっかりと頷いてみせた。
後悔などない。
皇子の周りには頼もしい味方がいる。
託す事のできる仲間がいる。
「俺の命は俺のためではなく皆のためにあります」
「ならば我々のために生き抜け」
式は、それには頷けずに、ほんの少し微笑してみせた。
「申し訳ありません」
血に濡れた大地に膝を突けば次に振り翳される剣先が矢鱈と鮮明に視界に写った。
己の剣を握っていた利き腕は、もうない。
刃も全て尽きた。
心臓の鼓動は確実に弱っていた。
我が身に残されたのは最後の息吹か。
それでも式は後悔も恐れもなく己に振り下ろされる剣を見つめていた。
その時にその声は聞こえたのだ。
「さすがは俺の花嫁だ、式」
漆黒の大きな翼が眼前に翻ったかと思うと体が宙に浮いた。
血臭を孕んだ風が頬に強く当たる。
我が身に迫っていた剣は砕かれ、粉々となり、鈍い日差しに煌めくようにして舞った。
鱗を全身に生やした翼竜が咆哮を上げ、敵も味方も呆気にとられている中、再び大空へと飛び立った。
「お前、は……」
翼竜の背に乗り、夥しい出血で赤く濡れた式を懐に抱くのは妖魔の隹であった。
熾烈を極める戦いに身を投じていた間は忘れられていた青水晶がそこにあった。
「血に濡れたお前は想像していたよりも美しいな」
「……下ろしてくれ、俺は……まだ……」
「お前はもう戦えない」
「……」
「人間のお前はつい今し方死んだ。お前はこれから妖魔の眷属となる。俺の花嫁にな」
戦況はどうなっている……皇子は無事なのか……まだ城は……。
「お前の皇子には魔獣の一角がついているから勝つ」
「……何だ、それは……どういう……」
「あれは幸運の女神だ。
皇子を見初めたから、そばにいる。
俺は一角が羨ましかったぞ。
でも、もうこれからはお前と共にいられる。
もう喋るなよ、式。
少し眠るといい」
そうか、皇子は……国は大丈夫なのか。
それならばいいんだ……皆が無事なら……。
「初夜が待ち遠しいな、式」
……今、何を言ったのだ、こいつは……。
青水晶の恩恵により失ったはずの利き腕を再びその身に授かり、正常なる鼓動が舞い戻ったのに気づく余地が今の式にはなかった。
ただ心の奥底で待ち望んでいた抱擁に身を委ね、猛々しい翼が風を切る音色を寝物語に、束の間の眠りにつこうとしていた。
式の額に口づけて隹は言う。
「次の目覚めは俺だけのために、式」
戦地に勝鬨が響き渡る。
自国への誇りに溢れた声が次々と。
深く傷つき、血に濡れた大地に膝を屈しそうになりながらも、勝利を信じて前を向き突き進んだ者達がその手で掴んだ勝利。
その国の皇子を見初めた魔獣にもたらされた恩恵、でもある。
城の塔で一角獣に見守られながら皇子は一人の従者と向かい合う。
「この地上を発つことと相成りました、皇子」
別れの時はきた。
皇子を支える腹心達も塔の頂上へ出、戦火で荒れながらも今は華々しい勝鬨に満たされた領土を背景に、共に戦ったその従者を見つめていた。
「赤穴さん。皇子を頼みます」
式は智略に長けた重臣でありながら執事の役割も華麗にこなす赤穴に向け、言う。
結われた長い黒髪を風に舞わせて赤穴は頷いた。
「達者でな、式」
「式、お前の事は忘れねぇぞ」
「お前はこれからもずっと、ずっと! 俺達の仲間だぞ!」
赤穴と、彼の背後にいた顔馴染みの面々が式に声をかけた。
「もう二度と会えないの、式?」
一角獣に庇護された皇子の前に式は跪いた。
まだ幼さの残る少年でありながら一国の運命を背負わされ、見事、希望の道を切り開いた主君。
「貴方に出会って俺は生まれ変わりました、皇子」
式は笑った。
初めて見る従者の笑顔に、皇子も、にこっと笑う。
「きっと、また会えるよね、式」
「ええ、皇子、またいつかどこかで、きっと」
立ち上がった式は彼らから顔を背けた。
塔の縁で身を休めていた翼竜の元へ迷いない足取りで歩み寄ると。
その背に跨って口を閉ざしていた妖魔に頷いてみせた。
「では、ゆくぞ」
隹のその一言に翼竜は畳んでいた翼を盛大に左右へ広げた。
差し伸べられた手に捕まり、鱗に覆われた胴体へ飛び乗り、式は隹に後ろからしがみつく。
広げた翼を数回羽ばたかせ、塔を踏切台にし、翼竜は空へ勢いよく飛び立った。
乱暴な踏み切りによって派手に崩れた塔の先端へ走り寄り、赤穴と一角獣に寄り添われながら皇子は手を振る。
料理人も庭師も手を振った。
赤く染まりゆく大空を飛翔する翼竜を見上げ、兵士も民も、晴れ晴れしい顔で歓声と共に頭上を仰いだ。
「泣いているのか、式」
隹の背中にしがみついた式は俯き、唇を噛み、無言でいる。
愛した国に見送られて式はこれまでの世界を旅立った。
そしてこれからの世界。
息絶えるはずだったその身に隹の恩恵を授かって生まれ変わりを遂げた式は妖魔の眷属として外界で生きることとなる。
隹の花嫁として。
「キャー! 奥方様がご乱心よ!!」
雷鳴轟く不吉で妖しい暗黒なる外界。
隹の屋敷にて使用人達の悲鳴が上がる。
嫌がる式に意地でも花嫁衣裳を着せようとした結果、キレた式が剣を振り回したからだ。
一つ目の使用人達が慌てふためくのを主の隹は酒瓶片手に笑う。
が、しなやかな体を曝したほぼ半裸の式が視界に飛び込んでくると、目の色を変え、思わず酒瓶を手の中でばりんと割った。
「こいつ等をなんとかしろ、隹!」
激昂する式はシャーシャー威嚇してくる使用人達を剣先で指し示す。
「夜伽の作法や教育を叩き込むだの、フェロモンを上げるあれやこれや飲めだの食えだの、うるさい!」
「まぁまぁ、落ち着けよ、式」
自分にまで振り翳される剣を器用に避けて、隹は、隙だらけのようでいて実は隙のない身のこなしで瞬時に式の懐に行き着くと。
剣を持ったままの式を易々と抱きかかえた。
「なっ何を」
「使用人どもに任せて悪かったな、俺自ら、一から手取り足取り教えてやろう」
さすがに腕の中では剣を振るえない式、だが、今にも頭上の顔を引っ掻きそうな険しい顔つきで喚いた。
「俺は男だ! 大体、いつ! お前の花嫁になると約束した!?」
「誓いの刻印を授けただろう?」
左手の薬指に刺青の如く刻まれた隹の噛み跡。
式はブンブン首を左右に振った。
「全て! お前が勝手にしたこと! 離せ!」
「ふ。お前は本当に無礼極まりないな。ま、そこがそそるんだが」
「離せ!!!!!」
しかしこいつがいなければ確かに俺は死んでいた。
あの戦場で、勝利を迎える前に、首を刎ねられていただろう。
暁の森であの一角獣に皇子を引き合わせたのも、恐らく、隹だ。
あの出会いがなければ魔獣からの恩恵が得られずにもしかしたら国は滅んでいたかもしれない。
兵士達の力を疑うわけではないが。
幸運の女神とやらの効用は大きかったはずだ。
「どうした?」
広々とした寝台の上。
中央で堂々と寝そべる隹からできる限り距離をとりつつも、同じ寝台の上にいる式は膝を抱き、花婿なる妖魔を見つめる。
人間離れした類稀なる容姿。
青水晶の双眸はまるで宝石のようだ。
この命を、愛する者達を救ってくれた、その礼という意味で。
「式」
一夜、この身を捧げてみようか。
「やっとその気になったか、我が花嫁?」
「……俺は男だ。お前の花嫁になどならん」
腹這いとなった隹に手を差し伸べられて式は切れ長な双眸を瞬かせる。
『いずれお前を迎えにいくぞ、式』
すでに式は隹に心を囚われている。
美しい青水晶を片時も忘れられず、そんな自分自身に戸惑い、正直な想いを有耶無耶にして。
隹を愛してしまうことを内心恐れている。
「これは礼だ」
式はそう呟くと隹の手をとった……。
そして。
二人は結ばれ――…………
「うわぁぁぁあ、やっぱり無理だぁぁあ!!!」
「往生際が悪いぞ、式」
「いやだ、お、皇子っ、皇子の元に戻る!!」
「あんまり付き纏うと一角に齧られるぞ」
「うううう」
ホームシックにかかって泣き喚く式を隹は外衣に包んで抱きしめてやった。
「ふ。まさかお前が子供のように愚図るとは」
「うううう」
翼竜の背で涙を堪えていた式を思い出し、隹は、小さく笑う。
腕の中で号泣する愛しい花嫁のしなやかな身を暖めてやる。
式は隹の胸に縋って泣き崩れた。
「お前の涙になら溺れ死んでもいいぞ、式」
初夜を迎えるのはいつになるやら。
我が花嫁よ、寝所に剣を忍ばせるのも一興だが、たまには愛を乞うのも悪くないぞ?
あの青水晶に毒されたか。
この身に巣食う熱は衰えもせずに心を蝕むばかり。
恨めしいぞ、我が夫よ。
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