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吸血鬼に捧げるラブ・ソング-4
「まさか、貴様」
夕日が遠退き、夜が訪れる。
近くで潮騒の音がする。
男は自分の前で膝を突き驚愕している標的を見下ろし、ふと、思った。
こいつには死の足音が聞こえているのかもしれないと。
「咬まれていたのか、すでに。人間ではないのか、もう」
吸血鬼を殺す方法は極限られた手段しかなかった。
聖職者の血が染み込んだ杭で心臓を刺し貫く。
あるいは同類の血。
吸血鬼は吸血鬼の血を毒とする。
呑み喰らえばただちに毒が回り死を来たす。
「ああ。俺はあんたと同じものになった」
その時、閉ざされていた扉が勢いよく開かれた。
男は通路の先に現れた彼を見て言った。
「俺は哀れな化け物になった」
標的は喉を押さえていた。
目は血走り、皮膚には脈が青く浮き立ち、唇は乾ききっていた。
美しかった青年の顔に禍々しい亀裂が入り始めていた。
それはあっという間に腐敗へと変わった。
煙を上げて血肉が枯れ果てていく。
土の中で亡者が嗚咽を上げているかのような恐ろしい声が辺りに響き渡り、歪なエコーが教会全体に悲鳴の如く伝わる。
微かな音と共に青白い炎に包まれ、毒の回った吸血鬼は一瞬にして消滅した。
黒い灰をたった少し残して。
「お前が追っていた宿敵は死んだ」
男は首筋に手をやった。
血を滲ませていた傷跡が、撫でた後には跡形もなく消え失せていた。
「今、ここで。お前は見たな、こいつが灰になるのを。もう地上のどこにもいない」
彼はあの時と同じように双眸を見開かせて男を見つめていた。
男は彼を見つめ返して微かに笑った。
「お前に遂げさせてやらなくて悪かった」
「隹、お前は」
「血をやったんだ。一人の吸血鬼に。お前の宿敵とは違う、ひっそりと暗闇で息をし続けている墓所の住人に」
彼はただ呆然としていた。
長い間追い続けていた宿敵が、大事な者達を屠り殺してきた憎い怨敵が目の前で灰になったのを見届けても尚、扉の前で立ち尽くして一歩も動き出そうとしなかった。
男は彼の足元を指差した。
そこには、男自身がここへ持ってきたボストンバッグが落ちていた。
中には聖職者の血が染み込んだトネリコの杭が入っている。
当初、標的を倒すために用意していた唯一の武器だった。
「それを持て、式」
男の一言に彼の双眸が戦慄いた。
表情に感情が戻り、切ない程に真っ直ぐな視線で男を射抜いて問いかけようとした。
「俺を救ってくれ」
男は彼に告げた。
彼にしかできない事だった。
他の誰にも叶えられない、男の最期の望みだった。
彼は涙を流さなかった。
落ちていたバッグから杭を掴み取り、前夜に見せていた恐れのない眼となって両手で握る。
己の運命を決意した揺るぎない眼差しであった。
彼は杭を携え、男を目指して木造の床を蹴った。
狭まる距離は死の近づきを意味していたが、男にも恐れはなかった。
すでに己の宿命と対峙し、すべてを受け入れて、その終焉を望んでいたから。
男は死神を迎え入れようと両腕を広げ彼を抱き止めた。
「お前を一人で死なせはしない」
男は潮騒の音を遠くに聞きながら閉ざしていた目を開いた。
我が身に終止符を打つ死の感触はない。
愛しい温もりがただ両腕の中にあった。
「俺はそう誓った」
「式」
「死ぬ時は一緒だ、隹」
壇上に立つ男への距離を無に帰す寸前、彼は杭を投げ捨てた。
その懐に飛び込んで身を重ね、一つの影となり、男の頭を掻き抱いた。
「その日までお前のそばにいる」
蝋燭の火が揺らめく。
虚空へ手を差し伸べる聖母像の微笑に薄闇が差し、光と闇が鬩ぎ合う。
「俺の血を」
気の遠くなるような抱擁の最中に男は彼の願いを耳にした。
闇の冷たさと彼の温もりが体を支配していた。
深い海の底にいるような静けさと、猛々しい炎に呑まれているような熱さを感じた。
男は水晶色だった双眸を鮮血の色に変えて彼の首筋に運命の口づけを刻んだ。
最初で最後の血の温みを無用の長物とすべき牙に刻み込ませた。
彼は喉奥で悲鳴を上げた。
男に抱き込まれて身の内を奪われていく感覚に意識を蝕まれ、逞しい肩に縋っていた両腕を解く。
自分がそれまでの自分でなくなる変貌に混乱し、虚脱した。
男は牙を抜き、常人が知り得ない虚の境地に堕ちて彷徨う彼を何度も呼号し、現への目覚めに導こうとあらん限りの力で抱き締めた。
絡み合った二人はゆっくりと崩れ落ちていった。
絶望や憎しみに巣喰われた日々は終わった。
暗夜を満たす闇に塗り潰された永い死期が始まった。
後悔はしていない。
恐れや未練に心を掬われて狂いそうになる事もない。
太陽と月が入れ代わるこの地上で最も近くに彼がいる。
求めていた世界が終わりの日まで永久に続く。
それ以外に何も望んでなどいないから。
「どこに行こうか」
まだ目覚めの訪れない彼へ男は問いかけた。
虚ろな眼差しばかり紡ぐ双眸は答えない。
彷徨を続ける心は硬く閉ざされて、ベッドに横たえられた体は沈黙を守るばかりだった。
光を絶った上、闇にまで拒絶されて行き場に迷う姿を見ているのはつらかった。
でも俺とお前に残された時間は永遠だ。
きっと、いつの日か目覚めるだろう。
その時は。
「お前の行きたい場所へ行こう」
そう呟いて隹は式へ口づけた。
「お前とならどこでもいいよ、隹」
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