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Mystery of you-2
その日から彼女をよく見かけるようになった。
昼下がり、訪問する度に突きつけられる忠告なんぞどこ吹く風で、再び彼の元を訪れ、彼を隣にして小鳥と戯れていたら、視線を感じた。
振り返る前に小鳥達が一斉に落ち葉の降り積もった地面から飛び立ち、隹は気をとられ、背後を確認するのが遅れた。
そして目を向けてみれば一際立派な大木の向こうに翻る長い髪の残像を目撃するのだ。
村長の一人娘であった。
毒を蜜と錯覚し、瞬く間に魅せられたのだろう。
「会ってやったのか? あの娘と」
隹の問いかけに彼はやはり何の反応も返さなかった。
そんな事がしばし続いた、ある日の事だった。
夕陽が傾き始め宵闇の訪れを間近にした時刻、教会にいた隹はものものしい音を耳にした。
馬の蹄、男の怒号、複数の足音。
不吉な音色に急き立てられて即座に外へ出てみれば、一本道をやってくる群集を目の当たりにした。
「あの幽霊男が村長の娘に乱暴をはたらいた」
「ただでは済まさん」
「斧でたたっ斬ってやる」
群集は松明を、斧を、猟銃を手にしていた。
隹はすぐに悟った。
あからさまに殺気立つ今の彼等にはもう何を言っても無駄だろうと。
一本道を行く群集とは別に森の中を分け入り、荒い息を散らし、葉の切っ先に頬を裂かれながらも隹は彼の住処を目指した。
気がつけば血の色をした満月が宵闇の彼方に昇っていた。
住処に彼の姿はなく、怒号はもうそこまで迫っており、隹は更に森の奥へ分け入ろうとした。
「あそこにいるぞ!」
「川岸だ!」
咆哮さながらに上がった声が隹の行く先を定めた。
群集の言った通り森のそばを流れる小川の岸辺に彼はいた。
町の男達に囲まれて燃え盛る炎を、斧や銃口を一斉に向けられていながらも、物静かにそこに立っていた。
荒々しい糾弾に怯えもせず、弁解もせず、ただ無言で項垂れている。
草臥れたコートは夕陽の残光を裾に滲ませていた。
何故か素足を冷たい水に浸して彼はそこに佇んでいた。
小鳥達に与えるためパンを小さく細かく千切ったあの白い指先が女の肌を穢すわけがない。
隹は地を蹴った。
乱暴されたという娘の兄が猟銃を構えるより先に群集の垣根を潜り抜け、引き鉄に指がかけられるより先に彼の元へと辿り着き、そして。
弾丸が放たれるより先に両腕を広げた。
赤い月が粛々と見下ろす中、隹はゆっくりと崩れ落ちた。
足の先を川に浸していた彼の目の前で、冷たい水の中へその身を沈めていった。
男達の怒号が、川のせせらぎが、己の鼓動が遠退いていく。
胸に埋まった弾丸による痛みだけが全身を激しく貫いていた。
「どうして」
だが、その声は不思議と鮮明に聞こえた。
遠い喧騒の如く渦巻く喚き声の中で掻き消えてもいいはずの途切れがちな声音だけが死に行く隹に届いた。
「どうしてだ、隹」
体内で溢れ出た血が喉を逆流して口元へと迸った。
緩々と目を開ければ彼の顔がすぐそこにある。
だが、もうその切れ長な美しい双眸を見分ける事はできなかった。
全てが遠退いていく。
命が抜け落ちていく。
ああ、その前に伝えなければ。
「あんたに傷ついてほしくなかった」
そう言って隹は笑った。
「お前を死なせはしない」
幻覚となる恐怖に囚われた群集が喚き叫ぶ中、川岸で隹を抱き締めた彼は口腔で己の舌を噛み裂いた。
そして命の灯火が尽きようとしていた隹に口づけて。
血の契約を交わした。
村人達は戻ってこない群集を探しに夜明け前の森へとやってきて川辺に倒れていた彼等を見つけた。
皆、体に怪我はなかった。
ただ、恐ろしい幻覚を引き摺り差し伸べられた家族の手にさえ恐怖する始末であった。
村の神父と余所者の姿はどこにも見当たらなかった。
余所者に心奪われた娘は朝日の差す部屋の片隅で一人涙を流す。
教会の裏手にある神父の簡素な住まいからは折り目のついた写真のみが失せていた……。
「俺にはもう必要ない」
差し出された写真を見下ろして隹は言う。
「俺にはあんたがいる。他にはもう何もいらない」
激しく波打つ灰色の海原が見渡せる、厳粛なる雰囲気に抱かれた古城の塔の窓辺に隹は立っていた。
神父服を脱いだ男は黒いシャツに黒のジャケットを羽織り、人間だった頃と然して変わらない黒ずくめの格好でいた。
ただ青水晶の双眸は前よりも鋭い光を宿していた。
守りたいものを守り通せる力を得たような確たる強さに漲っていた。
隹の傍らにいた彼は掲げていた写真を草臥れたコートの内に締まった。
「それなら俺が持っていよう」
「あんたが俺の家族の写真を?」
「お前が人間だった頃の証だ。持っていたい」
一族の掟に従い、彼は隹をこの古城へ連れてきた。
人間を同胞に変えた場合、一族の長に必ず会わせなければならないのだ。
「あんたの血を飲んで俺も少しだけあんたの過去が見えた」
並々ならぬ重厚さを帯びた調度品が並ぶ懐古的な部屋の中で二人は向かい合った。
「あんたの名前も。その思いも」
血の契約は出会った頃から始まっていた。
彼が隹の血を舌先に覚えた時から。
魅入られていたのは彼の方だった。
家族の死と真っ向から対峙し、手を差し伸べられずとも恨まず、哀れみに曝されるのも良しとせず、一人旅立った少年の潔さと強き心にひどく惹きつけられた。
青水晶の双眸がいとおしくてならなかった。
「早く俺を同胞にしてくれたらよかったのに」
隹は彼を引き寄せて抱き締めた。
待ち望んでいた温もりを両腕の中に閉じ込めて満足し、目を閉じる。
「……人は死すもの。我々は不死でいるもの。そう易々と誘う事はできない」
「俺を諦めるつもりだったのか」
「ああ。でも離れる事はできなかった」
「そばにいても目を合わせてくれなかったのは?」
「未練に囚われそうで……自分の欲に眩んでお前を同胞にしてしまいそうで」
「でも、もう、いいんだ。その目で永遠に俺を見続けてくれ、式」
式もまた隹の腕の中で目を閉じた。
波音の聞こえる部屋の中で、待ち望んでいた抱擁と永遠の始まりに胸を高鳴らせながら。
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