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エンジェル・イン・ザ・ウォーター/兵士×少年

■絶望が咲き乱れる世界。 軍律違反を犯して戦火の最前線から対岸の地に飛ばされた隹は彼に出会った。 砦に囚われ、捕虜より酷い仕打ちに遭いながらも澄んだ眼差しをした、不可思議な少年に… 「なぁ、お前に名前はないのか? ないなら、今、つけてやる。式にしよう」 ■残酷描写・微カニバ表現あり/鬱シリアスハピエン 放たれた銃弾。 目の前で弾けて咲いた鮮血の花。 噎せ返るような臭気に無情にも新たな死が紛れていく。 アア、オマエラハクルッテイル 隹は激情に呑まれるがまま血の滲むまでに握り締めた拳を振り翳した。 争いの絶えない地上。 限りなく広がる空の下、強きものが弱きものを蝕んでは我が物顔で大地に巣食う。 勝利を掲げて敗者を踏み潰しては傲慢的愉悦に浸かる。 誰の目にも明らかな弱肉強食が世界を支配していた。 勢力を伸ばす一つの国家。 独裁者を頂点とし、ひれ伏す者を人とも思わぬ殺戮者が集う、慈悲なき政権。 日夜問わず虐殺が行われていた。 「隹、お前は辺境のミスダッド砦への赴任が決まった」 軍部最高幹部の補佐官を務める側近、そして上官を殴り倒したという著しい軍律違反に至った兵員の父でもある男は、軽減された罰を当人に言い渡した。 そして父は息子に告げた。 「学べ、隹」 敵対する連合国家へ総攻撃を仕掛けている最中の最前線から対岸の地へ。 隹は一人旅立った。 ミスダッド砦には総勢七名の小部隊が駐留していた。 森と湿地に囲まれた辺境地帯を開拓するという任務で以前はもっと多くの人員が派遣されていたが、今や兵力は最前線に掻き集められ、最早用はないと見限られた辺鄙な地。 無能な大佐が指揮をとる愚者の拠り所。 砦とは名ばかり、崩れかけの防壁に囲われた、そこはまるで廃墟さながらであった。 希望も絶望も抱いていなかった隹は祖国から置き去りにされた、埃塗れの軍旗を掲げる砦を訪れた。 自分も愚者の一人だ。 相応しい場所かもしれない。 そんなことを思いながら砦の内部を案内する隊員の後をついていく。 食糧調達で森に行っていた者達が丁度戻ってきたのに鉢合わせた。 狩られた獣が肩に担がれていたり、無造作に鷲掴みにされていたり。 隹は思い出す。 かつての上官が死した母に縋る幼い子を撃ち殺したのを。 これで一緒になれたじゃないか、そう言って、痙攣する小さな背に向け弾倉を瞬く間に使いきったのを。 青水晶の鋭い双眸がざわりと波打った。 短い髪を革手袋に覆われた片手で握り締め、ゆっくりと息を吐き出す。 いっそ殺せばよかった。 後悔があるとすればそれだけだ。 砦内の兵の居住場所は粗末な出来の丸太小屋であった。 隙間風がひどく、暖炉には火がくべられて赤々と燃えている。 綿の食み出た座椅子にもたれ、酒の回った赤ら顔で鼾をかいて寝ている大佐に棒読みの挨拶をし、青水晶の眼差しを木造の室内に一回りさせて。 隹はそれを見つけた。 見つけるなり、ざわり、再び波打った双眸。 大型獣の毛皮が敷かれた床をブーツで進んで食堂兼作戦室に宛がわれている砦主要部の隅に向かう。 そこに置かれていたのは大きなケージだった。 膝を突いた隹は中を覗き込む。 中にいた彼もそばにやってきた隹を見た。 「人間みたいだろう?」 振り返れば寝ていたはずの大佐が酒瓶片手に背後に立っていた。 「そいつは魚だ」 隹の視線の先で酒を食らい、大佐は、言う。 「ここから数キロ先の森の中の湖で捕まえた」 隹は再び視線をケージの中に戻した。 魚と言われた少年は口輪のような拘束具を顔半分につけられていた。 それ以外何も身に纏っていない。 滑らかな肌を曝している。 セピア色の髪に蝋じみた色合いの冷ややかな肌。 切れ長な双眸は真っ直ぐに隹を見つめている。 「水の中で独自の進化を遂げた古代魚さ、陸生でもあり水生でもある、そして」 ケージの隙間から伸びてきたか細い指先が隹の革手袋に触れようとした。 次の瞬間、静かな部屋にけたたましく響いたノイズ。 「そいつは肉食だ」 ケージを蹴りつけた大佐が回れ右をして暖炉の前へと戻っていく。 ケージの中で彼は指を押さえていた。 折れたのではないだろうか。 だがその眼差しは痛みどころか恐怖や憎悪を浮かべるでもなく、ただ、淡い光をゆらゆらと宿していて。 隹の青水晶をそっと見つめてくるのだった。 夜、眠れずにいた隹は大佐の吠えるような喘ぎ声を聞いた。 覗かなくとも容易に察することができた。 相手はケージの少年だろう。 ここは肥溜めだ。 いや、ここだけじゃない、地平線の向こうもどこもかしこも。 豚どもの巣窟だ。 「名前はあるのか」 「……」 「目は見えているようだな、耳は? 言葉はわかるか?」 「……」 隹がケージ越しに話しかけても彼は反応を示さなかった。 ただ隹の双眸を見つめてくるだけだ。 どの隊員達も薄汚れて臭気を放ち、衛生面が疑わしいのに対し、彼の肌はどこまでも澄むように瑞々しい。 窮屈そうな拘束具に始終口元の自由を奪われているというのに。 ケージに閉じ込められ、夜は大佐及び小隊の兵から嬲り者にされているというのに。 その切れ長な眼は嘆くでも虚に陥るでもない。 どこか壊れているのだろうか。 「また魚に話しかけてるのか、ご子息殿は」 「泳ぎ方でも習っているのか」 魚。 独自の進化を遂げた古代魚。 戯言にも程がある。 他の隊員が外へ出払うと、隹は、常時ブーツに忍ばせているナイフを取り出した。 ケージの鍵は大佐が肌身離さず持ち歩いている。 それならばと、彼自身に、ナイフを持たせようとしたのだが。 か細い指先は取り落としてしまう。 革手袋越しに掴ませようとしても同じだった。 「逃げたくないのか」 自分で問いかけた瞬間、隹は気がついた。 逃げられるわけがない。 誰かを刺した瞬間、撃たれて殺されるだろう。 安易な考えだったと自嘲してナイフを元の場所に仕舞った。 「名前はないのか?」 ケージのすぐそばであぐらをかくと、ただ自分を真っ直ぐ見つめてくる彼に声を紡ぐ。 五指をとって骨折していないか確認し、異常はないとわかると、華奢な掌を手放した。 「元の場所へ戻りたいだろ」 俺の戻る場所はどこにあるだろう? その日。 遥か頭上では晴れやかな空が一面に広がり、皮膚を裂くような冷気が容赦なく増して空気は澄み切っていた。 隹は森の縁を一人歩んでいた。 そこは美しい原生林だった。 力強く伸びた木々が縦横無尽に鬱蒼と葉を茂らせ、日差しを遮り、森の中はほの暗いようだ。 花が咲いていた。 その花を一つ手折り、モッズコートの内側に仕舞って、閉門を怠り常時開かれている門を潜って砦の小屋に戻ってみれば。 大佐を含めた半数の隊員達がケージを取り囲んでいた。 ケージの中の彼は格子を掴んで深く俯いている。 息が荒い。 痙攣している。 蝋の肌がさらに冷えて青白さを帯びている。 隊員を押し退けた隹は膝を突くと、格子を握り締めているその手を革手袋越しに両手で覆った。 急変した彼の様子に心臓が押し潰される心地でケージの鍵を開けるよう大佐に願い出る。 四六時中赤ら顔でいる大佐はケージの鍵を胸ポケットから取り出すと床に放り投げた。 すぐさま手にし、とりつけられていた南京錠に差し込む。 ケージを開けば俯いたままの彼が力なく隹の胸の上へと。 不意に鼓膜を震わせた短い銃声。 「病気持ちだったとは忌々しい」 酒瓶の代わりに短銃を手にした大佐。 隹にさらにもたれてきた青白い体。 その肌にみるみる咲きゆく鮮血。 痙攣がひどくなる。 「少尉とそれを納屋へ運べ」 抵抗した隹は銃身で頭を殴られた。 装備していた武器を奪われ、引き摺られ、砦内にある木造の納屋へ連れて行かれる。 「お前のせいでその魚は死ぬ」 薄暗がりの饐えた匂いに満ちた狭い中に笑声を響かせて、大佐と隊員は去っていった。 出られぬように鍵をかけて。

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