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エンジェル・イン・ザ・ウォーター-2
隹は見る間に開花していく赤い傷口を落ちていた布きれで覆った。
羽織っていたモッズコートを裸身に着せ、ファスナーを上げて前を閉じ、体温低下を塞ぐためにフードも被せた。
「聞こえるか」
か細い肢体を痙攣させながらも彼は隹を薄目がちに見つめてくる。
その眼差しはこれまでと何一つ変わらなかった。
ただ、ゆらゆらと淡い光を切れ長な眼に宿して青水晶の双眸に視線を委ねてくる。
隹は彼の顔半分を覆っていた拘束具を外した。
滑らかな頬を両手で抱いて真摯に語りかけた。
「いいか、意識を保て。そのまま気を失うな」
ゆっくりとその場に寝せると何か消毒薬になりそうなものを探し回ったが、見つからず、窓一つない造りに舌打ちし、唯一の出入り口に体当たりして脆そうな割にびくともしない扉にただ体力を失う一方で。
徒労を噛み締めて彼の横たわる場所へ戻った。
「おい」
痙攣を続ける彼が虚空へ手を伸ばした。
隹は革手袋をはめた両手でその弱々しい手を握り締めた。
「そうだ、俺を見ていろ。なぁ、お前に名前はないのか? ないなら、今、つけてやる。式にしよう。なぁ、式、死ぬな、式、式……」
かつての上官が撃ち殺した、死した母に縋りついていた幼き子と隹は面識があった。
子供の名は式といった。
あの日、目の前で絶たれた小さな命。
「お前は大丈夫だ、きっと助かる」
隹は式を抱きしめた。
砦に夕闇が迫る。
大佐に命じられて納屋へやってきた隊員二人、一人が鍵を外して戸を開き、一人は小銃を構えた。
腰を下ろした隹とその傍らに倒れている式を目の当たりにすると下卑た笑みと共に声をかける。
「魚は干上がっちまったみたいだな、最後は愉しめたか?」
「立てよ、今から軍法会議だ、ご子息殿」
銃口でこめかみを突かれて隹はゆっくりと立ち上がった。
二人の隊員の間を言葉もなしに通り過ぎていく。
二人は倒れている式を何となく見下ろして気がついた。
拘束具が外されて露となった口元。
片頬が膨らんでいる。
「こいつ何を口に入れてるんだ?」
隣に立つ隊員に問いかけられて「さぁな」と答えようとしたもう一人は、声を出す代わりに、ひゅっと喉笛を鳴らした。
背後から翳された刃に喉を一文字に切り裂かれて死に直結する大量の出血を余儀なくされた。
地へ向けられていた銃口が上げられるよりも先に、血の滑りを一瞬で払い、ブーツに隠し持っていたナイフをそのまま二人目の喉に突き立てる。
あっという間の出来事だった。
「行こう、式」
閉じていた双眸を開いて式は隹を見上げた。
「お前の湖へ帰ろう」
同胞を殺め、元の場所にナイフを仕舞い、右手を差し出した隹。
彼の左手の革手袋は自身の血で濡れていた。
式は頬張っていた隹の小指と薬指を呑み込んだ。
不思議なことが起こったのだ。
砦の隊員を的確に仕留めていきながら隹は納屋での出来事を思い返す。
すると集中力を乱されるどころか、神経は研ぎ澄まされ、標的がまるで鈍い生き物のように感じられて。
失った左の小指と薬指の痛みは消えていた。
そう。
止血していた布きれを外して確認してみれば大佐に撃たれて鮮血を咲かせたはずの銃創が式の身からなくなっていた、だが痙攣は止まらず、肌は冷えていく一方で。
魚。
独自の進化を遂げた古代魚。
肉食。
かつて目の前で殺された式のため、今、目の前で苦しむ式を助けたいと無心で願い、あるはずの銃創が消え失せたという奇跡に中てられていた隹は。
ブーツから取り出したナイフで自ら二本の指を一度に切断した。
素早く式の血が染み込んだ布きれで止血を施すと、その二本の指をさらに細かく切断し、彼の口内に含ませた。
含ませた後に痙攣が嘘のように治まった。
飴玉のように指をしゃぶる無垢な式の姿に、激痛に苛まれながらも隹が笑みを浮かべたら。
式は隹の傷口に口づけた。
それから痛みは消えたのだ。
俺は学んだ、親愛なる父君。
人は醜い。
俺も貴方も皆。
七人目を銃殺した隹は式を抱いて砦を後にした。
月明かりが差し込む森の中。
動物の息遣いも虫の音もなく、恐ろしいほどの静寂に閉ざされて凍てつく暗闇。
隹は白い息を吐き散らし、モッズコートに包まる式を腕の中に抱いて底冷えする森の中を行く。
吹く風もない。
太古から永く生き続ける巨樹の足元を迷わない足取りで突き進む。
この先に果たして式の帰る場所があるのか。
隹にはわからなかった。
だが進まなければならなかった。
迷い、悔い、恐れ、足をとられるわけにはいかなかった。
「式、きっともうすぐだ」
隹の腕の中で式はじっとしていた。
自由を遮っていたケージを抜け、体を蝕んだ愚者どもは死に、こうして帰路についているというのに、やはりその眼差しは何も変わらない。
彼が息をしているというだけで心が満たされる隹は進み続ける。
暗い、昏い、森を。
愚行が延々と繰り返される無情な世界に背を向けて原生林の暗闇を掻き分ける。
現から古へ遡るように。
進化で得た全てを棄てて退化を辿るように。
重なり合う木立の狭間に垣間見え始めた青い煌めき。
隹は式を抱き直し、真っ直ぐにその光を見据え、歩む。
湖はあった。
森に抱かれるように原生林の奥深い懐でゆっくりと息をしていた。
透明でいて、うっすらと孕む色合いは、クリスタルにも似ていて。
隹の青水晶の双眸と同じで。
そう。
だから式は隹を見つめていた。
帰る場所は、戻りたい場所は、いつだってそこにあった。
隹は足取りを緩めずに浅瀬に浸かった。
式を抱いたまま、そのまま、半身を沈めていく。
「なぁ、式」
湖に身を委ねるのを少しも厭わずに隹は腕の中の式に語りかける。
「俺を食ってくれ」
俺はこの身を棄てたい。
戻る場所はこの世界のどこにもない。
だから……。
隹はすでに胸元まで湖に浸っていた。
あたたかい。
とても安らかな気持ちになった。
ふと湖面がさざめいたかと思うと式に着せていたモッズコートが流されていった。
彼に見せようと手折って仕舞っていた花も揺らめいて浅瀬へと運ばれていく。
式は隹を抱きしめた。
隹も式を抱きしめた。
こんなに美しいものになら身も心も食われていい、濡れた腕の中、隹は想った。
隹の目の前で式は湖水を両手に掬った。
飲むように口元へ運ぶ。
そしてその両手を隹へと掲げた。
小さな手の中では湖水が湛えられたままだ。
小さな魚がゆらゆらと泳いでいる。
それは、式が呑み込んだ、隹の指。
青水晶の色をした美しい魚だった。
深い、深い、古代湖の底。
式はどこまでも自由に泳ぎ回る。
それは美しい青水晶の大魚 と共に。
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