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願わくば裁きの十字を/吸血鬼×半吸血鬼

■「血を飲んでいないだろう。お前、まだ自分が人間だとでも思っているのか」 月が赤く輝く夜。 それまで一人暗闇に身を委ねていた式はおもむろに月光の元へ己を曝し、歩き始めた。 街にはあらゆる臭気が満ちていた。 自分が惹かれてどうしようもない血の匂いを幾度となく嗅ぎ付けたが無視を決め込んだ。 肩にぶつかる影絵の如き徘徊者を睨むような真似もせず、漆黒のジャケットに両手を突っ込んでただ黙々と突き進む。 飢えている。 それだけはわかっていた。 だが血は飲まないと心に決めていた。 ああ……俺を呼ぶのは誰だろう。 お前なのか、隹? 歓楽街の角に建つモーテルに入ると螺旋階段を上り、ある部屋の前で式は立ち止まった。 呼び声はここからしている。 中にはもちろん同類の気配。 鍵のかかっていない、立て付けの悪いドアを開くと、目の前に彼が立っていた。 「久し振りだな、式」 黒いスーツ姿で長身の男だった。 鋭い眼は危うげな雰囲気を醸し出している。それは無色に近い水晶色の双眸であった。 式は部屋の中へ進もうとはせずに、男をじっと見つめた。 「隹」 「しばらく会わない間に随分と弱ったみたいだな」 そう言うなり、不意に伸ばされた手が式の細い顎を掴んで強引に前へと引き寄せた。 式は一瞬眉をひそめたものの、されるがまま過剰な接近を許した。 「血を飲んでいないだろう」 「……」 「お前、まだ自分が人間だとでも思っているのか」 薄暗い室内を背にした隹は不敵に笑った。 「意地を張るのは勝手だが、どうせ長続きしない」 「それならいっそ死ぬ」 式は隹を凛と見据えて断言した。 笑みを消した隹は冷ややかに彼を見下ろして、手を離した。 「痩せ我慢がどれだけ続くか見届けてやろうじゃないか」 そしてドアは閉められた。 隹は式を堕落させた張本人だった。 人間から吸血鬼へ、無理矢理血を交わし、暗鬱たる奈落へ突き落としたのである。 以前は殺したいくらいに憎悪したが、彼が消え去ったとしてもこの運命は最早不動のもの。 だから式は一人暗闇をさ迷っている。 人間であった頃の思い出はまだ記憶にあるが無意味な過去の回想はしないようにしている。 しかし、この先異形の存在として生き続けるつもりもない。 干からびて無様に野垂れ死ぬのが自分に似合いの末路だと、式はそう思っていた。 覚束ない月明かりと常夜灯が退廃に塗れた夜の街を照らす。 欲望に飢えた息遣いがどこからともなく聞こえ、渇いた眼差しの通行人は三重苦さながらの沈黙ぶりで真夜中を徘徊する。 確実に弱りつつある体を暗闇に潜ませていた式は、又も呼び声を捕らえ、歯痒いながらも明かりの元に身を曝して歩き出した。 無視を決め込んでもいいのだが、耳障りな呼び声が延々と続くのは耐えられない。 頭の中に直接響くそれは途方もない煩わしさを生むのだ。 前回と同じモーテルを訪れ、螺旋階段を上りその部屋の前に立ち、式は顔をしかめた。 血の匂いがする。 ドアノブに伸ばしかけた手を虚空に止めて、どうしようか迷った。 何だかとてつもなく嫌な事が起こりそうな気がする。 引き返そう。 彼は一歩身を引いてその場を離れようとした。 「式」 その時、ドアの向こうから呼号された。 自分よりも濃い吸血鬼の血を持つ彼の力に促され、式は、意思とは反対にドアを開けて中へと入った。 中は暗い。 薄汚れた外観の割りに室内の天井は高く広々としていて贅沢な開放感があった。 奥のクイーンサイズのベッドに隹は女と共にいた。 「招待してやったぞ、式」 スーツ姿の隹は、ほっそりとした肢体に黒いドレスを纏った女の青白い細腕に口づけていた。 一筋の血がそこから伝い落ちている。 まるで赤いブレスレットをしているかのようだ。 「お前のために用意した」 「俺は頼んでなど」 壁に背中をぶつけた式は低い声音を発した。 ほんの一筋の血から溢れ出す、ひどく魅力的で鮮烈な香りに今まで保ってきた自制心がぐらついた。 うっとりと身を預ける人間の女に微笑みかけ、隹は次に嘲笑の視線を式に投げやった。 「飲まないのか? 飲みたいんだろう?」 式は隹を睨み付けた。 「俺は飲まないと誓った」 何とかその台詞を吐き出した式は部屋を後にしようと踵を返した。 次の瞬間、背後で鈍い音がした。 立ち止まり、肩越しに顧み、式はそれを目の当たりにする。 つい先刻まで恍惚とした笑みを浮かべていた女の命が事切れているのは一目で知れた。 「勿体ない。せっかくの子羊を無駄にして」 容赦ない力で女の首を一瞬にして捻じ曲げた隹は体を起こし、投げ出された細腕に最後の口づけを施す。 式は目を見開かせて彼の凶行に愕然としていた。 哀れな死体を見つめて、唇を噛んだ。 「何て事を」 式は、又しても手足の自由を奪われているのに気がついた。 ベッドから立ち上がった隹がゆっくりと近づいてくる。 彼には凝視しているしか術がなく、ただでさえ血の気のない顔がみるみると青ざめていった。 至近距離までやってきた隹は式を勢いよく壁に叩きつけた。 「ッ」 頭を打ち、目眩に貫かれる中、式は逞しい体に覆い被さられた。 唇に唇が重なって、直に血を流し込まれる。 式は呻いた。 口腔に満ちた芳香を伴う鮮血に背筋がゾクリと震える。 狂気紛いの熱にしなやかな体を犯されて否応なしに思考が霞む。 式はとうとう血を飲んだ。 今までの辛抱が無に帰した、無情な一瞬だった。 やはりいつか殺すべきかもしれない。 高層ビルの屋上で血塗られた満月を見上げながら、式は、虚ろだった双眸に鮮やかな殺意を灯す。 決して鎮まらない、燃え盛る焔にも似た唯一の感情を。

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