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In my arms/猟師×皇子

■第一皇子である兄から命を狙われた、妾の子である第二皇子。 毒薬によって声を失った彼は城から逃げ延び、雪原に倒れていたところを、猟師と狼によって救われた。 「王冠はあんたに相応しい。皇子」 貴方のそばで生きられたら。 それ以上の幸福なんて、きっと、ない。 凍てついた寒さに指先がかじかんでくる。 まるで殺気にも似た緊張感に張り詰めた鋭さ。 いや、確かに命をとられかねない。 気を抜けば膨大な疲労に押し潰されてそのまま亡骸と成り果ててもおかしくはなかった。 雪に足をとられてうまく歩けない。 いっそこのまま死んでしまおうか。 父王が病に臥し、正統な王位後継者で腹違いの兄君は妾の子である私に毒を盛った。 死は免れたが声を失い、幼子の頃から世話役としてそばにいてくれた婆やは涙ながらに遠くへ逃げるよう進言してきた。 誰も信じてはいけない。 一人で行きなさい。 城を飛び出して見知らぬこの土地まで逃げてきたが、これからどう生きろというのだ? いつの間に雪がやんだ針葉樹林の奥深くで彼はとうとう膝を突いた。 自然と上体が積雪の上へと倒れ込む。 呼吸は掠れ、感覚が麻痺するのに時間はかからなかった。 何だ、こんなに楽じゃないか。 死とはもっと恐ろしいものだと思っていた。 自然と頬を流れ落ちた涙にも気づけずに彼は、式は、ゆっくりと目を瞑った。 暖かい。 これが死後の世界か。 こんなに暖かで安らかなものだとは思いもしなかった。 しかも鼓動を感じる。 死んでも心臓は脈を打つというのか……。 「起きたか」 自分に向かって落ちてきた声に式はゆっくりと目を開いた。 「具合はどうだ?」 見知らぬ男が自分を見下ろしている。 水晶の色をした双眸が綺麗だ。 なかなか屈強な体つきで雄々しい喉元が露になっている。 ここは死後の世界ではない。 私は生きている。 「急に動くなよ」 寝台で仰向けに寝ていた式に男がすかさず言う。 最初の一声と比べると鋭く尖っており、目覚めたばかりの思考では十分に飲み込めず身じろぎ一つした。 すぐそばで獣の唸り声が聞こえた。 寝惚け眼にそれを見やった式は愕然となる。 何と、自分の真上に二頭の狼が折り重なって寝ているではないか。 「いきなり起こすな。機嫌を損ねたら噛まれる」 眠気が一気に遠退いて硬直した式に男は淡々と注意を促した。 覆い被さっているのは灰色狼と白狼で、どちらも成獣だ。 本気で噛まれたら大怪我どころではない、本当に天に召されるだろう。 一体、どうしたらいいんだ。 というか、どうしてこんな事になったんだ。 式は目を見開かせて寝台の傍らに立つ男を一心に見上げた。 「こいつ等があんたの上で勝手に眠ったんだ」 そんな。 眠る前に退かしてくれたらいいのに。 「暖がとれていいだろう。そもそも雪に埋もれていたあんたを見つけたのはこいつ等だ。感謝しろよ。発見が遅れていたら死んでいたぞ」 はっきりと物を言う男である。 何枚ものブランケットに大型動物の毛皮、その上に被さる本物の獣二頭の重さを式はやっと痛感し、額に汗を滲ませた。 ありがとう。 そう言いたかった。 それなのに声が出てこない。 式は男を見上げたまま口を何度か開閉してみせた。 声が出せない事を伝えたかったのである。 「腹が減ったのか?」  ち、違う。 まぁ実際に空腹ではあるが、私はお前に礼を言いたいのだ。 「お綺麗な顔に見合わず図太い性格だな。まぁ、いい。何か持ってきてやる」 男はそう告げると颯爽と式の視界から去った。 男がいなくなり、眠る獣と残されて急に心細さを感じた式は何となく辺りを見回した。 石造りの壁や梁だらけの天井には立派な毛皮が幾重にも下げられている。 剥製などは見当たらない。 無造作な出来のサイドテーブルは若干斜めであり、置かれた洗面器は微妙に傾いていた。 見つけてくれたのは狼らしいが、ここまで運び、看病をしてくれたのはあの男だ。 彼は何者なのだろう。 こんな山奥に一人で暮らしているのか。 ぼんやりと男の正体を考えていたら本人が大股で戻ってきた。 手にはアルミ製のカップが握られている。 甘ったるい香りが部屋の中を漂い、どうやらそれが狼達の嗅覚をも刺激したようだ。 式の腹の上で灰色狼がおもむろに頭を擡げた。 「お前の玩具がお目覚めだぞ」 玩具呼ばわりされて固まる式を灰色狼は覗き込んできた。 偽りを貫くような聡明で美しい眼だ。 式は恐怖を忘れてその輝きに釘づけとなった。 べろりと大きな舌で頬を舐められた際には声にできない悲鳴を上げたが。 「気に入られたな、あんた」と、呑気に男が言う。 舐められ続けている式は目を白黒させるばかりだ。 下手に抵抗したらガブリといかれるやもしれないと思い、逃げ出したい気持ちを抑える。 次に目覚めた白狼からまたも舌の愛撫を受けると巨体を支えきれずに情けなくベッドへ埋もれた。 「せっかく助けたのに窒息するぞ。その辺にしておけ」 男が短い口笛を鳴らす。 二頭の獣は大きな耳をピンと立てて寝台から飛び降りた。 放心している式に男は笑いつつカップを差し出した。 「暖めたミルクにブランデーを混ぜた。温まるぞ」 甘い香りを間近にして式は我に返り、受け取ろうとした。 しかし手が震えてうまくカップを握れない。 凍傷は寸でのところで免れたが指の腹は何箇所か裂けて血を滲ませていた。 男は難儀する式に声をかけるでもなく冷たい手に自分の手を重ねた。 心身を落ち着かせる温かい飲み物に式はほっとした。 男の手を借りてあっという間に飲み干す。 喉の奥からじんわり熱くなっていくのを感じ、寝台のそばにいる狼達への警戒も一端解いて、人心地ついた。 「飲んだな」 アンバランスなテーブルにカップが下ろされる。 式は口元を拭い、男を見た。 彼はその場に腰を下ろして狼達と戯れ始める。 森を自由に駆ける獣は男に至極似合いであった。 この人は礼を言わない私を不快に思わないのだろうか。 手荷物一つで森を突っ切ろうとしていた私に疑問を抱かないのだろうか。 何も事情を聞こうとしない。 私は言葉をかけたいのに声が出ない……。 「どうした」 向きを変えて真正面から自分を見つめてくる式に男が尋ねた。 長い鼻頭を擦りつけてくる白狼の頭を広げた掌で撫でながら、首を傾げる。 式は必死に男を見つめたまま「ありがとう」と呟いた。 声にはならなかったが。 視線と唇の動きで届くよう祈りながら。 「……ああ、別に。構わない」 よかった。 届いた。 式は気持ちを伝えられた喜びに頬を緩め、次に自分の喉を指差し、首を左右に振った。 男は水晶の双眸をすぅっと細めて式を見つめた。 「話せないのか」 風が恐ろしげな音を奏でる。 誰かの断末魔のような細く高い音色。 寝台の上で毛布に包まり座り込んでいた式は王家の紋章が刻まれたペンダントの中に潜む写真を眺めていた。 今は亡き母親が色褪せた姿でそこにいる。 流行病にかかり城の片隅で式と婆やにのみ看取られて死んでいった、美しい人だった。 ペンダントが閉じられる些細な音に灰色狼の片耳が僅かに震えた。 あ、すまない。 一瞬牙を覗かせて唸った灰色狼であったが、すぐに夢の続きへと戻っていった。 式はちょっと怯えたものの寝台を下りようとはせず、そっと膝を抱いた。 隹はもう寝たのだろうか。 彼は隣の部屋で白狼と寝ていた。 寝台は式に譲り、自分は暖炉前の長椅子で眠るという。 扉がなく音は筒抜けのはずだが壁の向こうから聞こえる物音はすでになかった。 隹は猟師だという。 この居住の隣に仕事場の小屋があり、そこで獣を捌いて肉は食料に、よい毛皮ができあがれば麓の町で売るか交換して生活に必要な品を得るらしい。 日々生きる事に対し無駄のない生業だと式は思った。 王家の者には金に汚く、色に明け暮れ、下々を見下す人間がいる。 腹違いの兄がそのいい例であった。 彼が継ぐとなると国の行く末が危ぶまれる。 だけど、もう、私はあそこには戻れない。 一人で生きていかなければならないのだ。

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