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In my arms-2

「あんた、風邪を引くぞ」 白銀の大地の上で薄着姿の隹がブランケットを頭から被って外へ出てきた式に言う。 吐く息はどこまでも白かった。 灰色の空へゆっくりと舞い上がって溶けていく。 木々の纏う雪の純白さは寝起きの目には些か毒だった。 式は何度も瞬きしながら薪割りに勤しむ男へ近づいた。 式が手を差し出したので隹は首を傾げた。 「何かほしいのか」 式は首を左右に振り、隹の握る斧を指差し、次に自分を指した。 「割りたいのか?」 頷く。 隹は無理だとも何も言わずに斧を渡した。 なかなかの重さに式は動揺したが、ブランケットを雪の上に落とし、それを振り上げた。 鈍い音が静まり返った森の懐で響く。 「まだあんたには早かったな」 立てかけた薪に不恰好に刺さった斧を軽々と抜き、隹は両手の痺れを必死で堪える式に小さく笑った。 次の瞬間、小気味いい音を立てて薪が二つに割れた。 「俺がするのを見ていればいい。自然と覚えるだろう」 ブランケットを被り直した式は後退し、言われた通り、隹が薪を割るのを眺める事にした。 彼の肉体はどこもかしこも頼もしい力強さに溢れていた。 薄手のセーターを盛り上げる胸板、二の腕、程よく括れた腰。 不敵な眼差しは片時も揺るがない。 獣を狩る時、彼はどんな表情を見せるのだろうか。 この人も森を駆る獣と化すのかもしれない。 「今日は荒れそうだ」 隹の呟きを聞いて式は空を仰ぐ。 どこをどう見て天候を読んだのか。 樹氷越しに広がる空はただどこまでも同じ灰色で、さっぱりわからなかった。 この人から学びたい。生きるための術を。 迷惑だろうか。 話もできない者に、そばにいられたら……。 隹に読み書きができないと言われ、文字を書いて言葉を伝えようとした式は見事に頓挫してしまった。 「悪かったな」 詫びられた式は思い切り首を左右に振った。 隹のセーターを掴み、眉根を寄せて彼をじっと見上げる。 ジェスチャーと視線しか頼るものがない彼は「お前は悪くない」と切れ長な双眸で伝えようとした。 暖炉の前で折り重なった狼達は人間二人の言葉のない遣り取りを無邪気に見守っている。 外では雪を伴う風が逆巻き、相変わらず慟哭じみた音色を起こしていた。 自分を真摯に見上げ続ける式に隹は頷いてみせた。 「あんたは優しいんだな」 優しいのは貴方だろう。 式に指差された隹は「それはない」と首を左右に振って一笑したのだった。 嵐は二日続いた。 出るにも出られず、式は隹と共にいた。 群れを離れたという珍しい狼二頭で時に暖をとり、すっかり慣れて愛着を覚え、時間が経つのを忘れて戯れたりもした。 話ができない身であるが故に会話を求めぬ獣達といるのは居心地がよかった。 それは人間である隹にも言えた。 彼は最低限のジェスチャーと真っ直ぐに繋げた視線で式の言葉を容易に察してくれた。 一つ一つ、気持ちが伝わる度に式は嬉しくて、城ではあまり見せなかった笑顔をよく浮かべるようになった。 この人と一緒に月日を過ごせたらどんなにいいだろう。 その思いは彼に伝わらないようにした。 無理な話だとわかっていたから。 曝した瞬間、嫌な顔をされたらと思うと。 二度と癒えない傷を負ってしまいそうな気がして。 その者達には見覚えがあった。 嵐がやみ、早朝から狩りに出た隹を一目見たく、闇雲に森の中を彷徨っていたら遭遇した相手。 「これはこれは。第二皇子ではありませんか」 向こうも式を覚えていた。 兄を護衛する武装従者の内の二人だ。 黒ずくめの装束と抜き身の殺気で周囲を威圧する手練れ共。 彼等が何故ここに? 「お声が出ないようで」 「好都合というもの」 戦闘経験がなく武道の一つも習得していない式はあっという間に打ち倒された。 雪の上に縫い止められて身動きを容易く封じられ、恐怖に射竦められる暇もなく、頭上に短剣を振り仰がれる。 何故。 私は城を出たというのに。 王位は兄君が継ぐというのに、殺されなければ……? 「殺しはしません」 黒布で顔の半面を覆う従者はさも愉快そうに言った。 殺しに慣れ、血に飢えた彼等は半ば常軌を逸した殺人集団でもある。 淀んだ目は美しく凍りついた式に欲望を煽られて露骨にぎらついていた。 「ただ、目を頂こうかと」 「物言えぬ体で盲目ともなれば王も諦めましょう」 どういう事だ。 「血で穢された皇子を犯すのも、また、一興……」 黒布の下で卑しい笑みを刻んだ従者は短剣を振り翳す。 しかし剣先は式に届かなかった。 いずこから放たれた鋭き刃が従者の手首に突き立ったのだ。 「!」 従者が悲鳴を上げる間、もう一人の従者へ間髪おかずに次の刃が襲いかかった。 片目に突き刺さる、その途方もない痛みに迸った悲鳴が再び森の静けさを貫く。 「次にそいつに触れてみろ」 それまで聞こえもしなかった、雪を荒く踏む足音に式は強張りがちな視線を背後へ向ける。 擬態のため毛皮を身に纏った隹が猟銃を構えた姿勢で視界に訪れた。 「眉間に向かって引き鉄を引く」 その身に刃を突き立てたまま負傷者は俊敏に去っていった。 やってきた隹は雪に埋もれていた式を抱き起こすと、滑らかな頬に飛んでいた血をすぐさま拭った。 式はやっと自分がおかれていた状況を実感し、震えた。 真上に迫っていた刃先の輝きを思い出して背筋を粟立たせた。 「大丈夫だ」 隹は怯えに揺らぐ式の切れ長な眼を覗き込む。 「奴等はもういない。あんたは生きてる」 今までで一番近い距離で視線が繋がった。 「俺がここにいる」 そばに投げ出された短剣の柄には王家の紋章が彫られていた。 式の持つペンダントに刻まれたものと同じ、王冠が。

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