101 / 198

Nightmare/夢魔×ハンター

■永遠に一度の約束を交わして貴方は眠りにつく。 魔が潜む暗闇を寝物語に夢見ながら。 「さようなら、我が半身だった俺の夢」 干乾びたような木々の群れと物憂い霧に守られるようにして屋敷は佇んでいた。 古めかしい煉瓦壁には縦横無尽に蔦が絡みついている。 閉ざされた窓は淀んだ外気を写し出し、厳しい面構えのガーゴイルは久方振りに訪れた客人を見開かれた眼で待ち構える。 客人の男は屋敷を取り囲む門扉を抜けると凛々しい眼差しを頭上に向けた。 霧の立ち込めた鬱蒼と連なる林を迷わずに突き進むことができたのは、ここから細く鋭い妖気が放たれていたからだ。 事前に届けられていた地図を見る必要もなかった。 客人の名は式といった。 悪しき妖魔を退き、断つ、ハンターである。 彼は屋敷の主に依頼を受けてこの地へとやってきた。 「彼女は夢魔に囚われてしまった」 老人の悲しげな声がそっと静寂に溶けていく。 その部屋にあるものは何もかもが美しかった。 壁際を覆う重厚な調度品。 深みのあるドレープを描いたカーテン。 光はなくとも淡い煌きを仄かに宿すシャンデリア。 広々とした寝台と天蓋のレース。 そこには最も美しいものが眠っていた。 絹糸を思わせる髪は枕を伝い、シーツを滑り、床に敷かれた絨毯にまで届いている。 閉ざされた瞼を彩る漆黒の睫毛は震えもしない。 深紅の唇も、重なり合う細い指先も。 まるで時を止められた亡骸のようだった。 「五十年前のあの日から、ずっと」 独り言のように呟く老人を後ろに、式は、寝台で眠るうら若い眠り姫を緊張した面持ちで見下ろしていた。 濃厚な妖気に鼓動を急かされる。 今まで対峙してきたどの妖魔をも軽く凌ぐほどの鋭さと深みだ。 上級妖魔の上をいく魔君主クラスかもしれない。 しかし解せない。 どうして彼女はこうも安らかに眠っている? 身の内に尋常ならぬ力を持った夢魔を宿しながら、何故、微笑んでいる? 「彼女を起こしてほしい」 式の隣に立った老人は崩れ落ちるようにしてその場に跪いた。 ひどく骨張った手を艶めく頬に伸ばそうとし、途中で止め、真っ白なシーツに力なく沈めた。 「彼女の声が聞きたい、今…」 世にも美しい眠り姫を焦がれるその声音に式は緊張や疑問を払い、依頼者である主を見やった。 「もう私には耐えられない」 彼が彼女を望むのであれば己は彼女を救うだけだ。 彼女の夢に入り夢魔を探す。 澄み渡った空。 頬を過ぎる清浄な風。 寄り添い合う、二人の後ろ姿。 式は戸惑う。 こんな夢は初めてだった。 夢魔に囚われた者はおぞましい悪夢しか見ないはずだ。 それなのにここはどうだろう。 美しく、清らかで、静謐で。 ただ穏やかな時間がひっそりと流れている。 彼女の夢の入口で式はしばらく目の前の幸福を見つめていた。 だから彼女の寝顔はあんなにも安らかだったのか。 無残にも止められた現実の続きをここで夢見て、夢魔の侵食を食い止めて? 普通の人間にできる術ではない。 「いつまでもここにはいられない」 式は歩き出した。 必ずこの世界のどこかに夢魔がいる。 人の心身を貪り、死に追いやる悪の根源が。 ああ、しかし、どうして。 夢魔は五十年も彼女を生かしている? 不自由ない翼が遥か頭上を舞う中、式は同じ歩幅で延々と歩く。 どうしてもこの現状を訝しがらずにはいられない。 普段、彼は疑問を持たないようにしている。 夢の中で余計な詮索など不要だ。 己はただ人間を救えばいい。 思考が乱れていると夢に迷い、命を落とす危険だってあるのだから。 そんな式でも心を揺さぶられる有様だった。 風と葉の戯れる密やかな音色に視線を向ければ、彼女の長い髪が波打って中空の湖水を弾く。 微笑の残像が日の光に溶けて消えていく。 彼への溢れんばかりの想いが純白の花を咲かせ、草原を彩っていく。 いつまでもここにいたい。 そんな安らぎに満ちた風景に式は度々目を奪われた。 だが、歩みは止めない。 次第に妖気が近づいてくる。 不意に湖は枯れて木々は黒く焦げつき始め、青々としていた空は暗雲に閉ざされた。 不吉な雷鳴が至るところで轟いている。 いくつもの影が獣じみた唸り声を上げて辺りを徘徊している。 世界の変わり目から少し歩いた先に式はそれを見つけた。 現実で目の当たりにした、彼等のいる屋敷とよく似た住処であった。 が、こちらの傷みの方が相当ひどい。 煉瓦壁には無数のヒビが血管のように細かに走り、どこもかしこもどす黒く変色している。 ガーゴイルは本物の悪魔だ。 式を見下ろすと真っ黒な翼を広げ、咆哮を上げて威嚇してきた。 式は同じ歩幅で屋敷の中へ入った。 蜘蛛の巣が張り巡らされ、首のない天使の像が通路の隅に打ち捨てられている。 四方から耳障りな軋みが絶えずしていた。 主も使用人もいない。 虚無に蝕まれた薄闇の中、その息遣いが直に伝わってきた。 いる。 ここに。 俺を手招いているのがわかる。 彼女の寝室だった部屋を式は訪れた。 調度品もカーテンもシャンデリアもないそこには、雑に組まれたパイプ製の寝台があった。 今にも千切れ落ちそうな白っぽい仕切りのカーテンがぶら下がっている。 寝台に前脚を乗せていた頭のない動物が豚のような鳴き声を出し、式と擦れ違いに部屋を出て行った。 「来たな」 式は歩幅を崩さずに寝台へと歩み寄り、錆びついたカーテンを勢いよく引き千切った。 「お前は変わった人間だ」

ともだちにシェアしよう!