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Nightmare-2
そこには一人の妖魔が寛いでいた。
枕代わりの両腕を頭の後ろで組んで、立てた片膝に片足を引っ掛けて。
人型の妖魔を初めて目にした式は背筋を粟立たせながらも、凛とした眼差しは変えずに、揺るぎない声を放った。
「お前を迎えに来た」
「へぇ、どこへ?」
透明に近い水晶の眼が式を見上げる。
月の色に似た髪は長く、鎖骨を追い越すほどだろうか。
不敵な笑みが口元を飾っていた。
「俺の夢へ。そこでお前を殺す」
「ふぅん」
現在、生身の式は眠りについている。
彼女のすぐそばで、その肌に触れて。
それだけで式は相手の夢に落ちることができた。
後はこの夢魔を己の夢へと誘い断つだけ。
夢魔をここから引き剥がすには自分に敵意を抱かせ、巣食う標的を我が身へと変えさせなければならない。
そこで式の意識が呑まれたら終わりだ。
夢魔の威力と立ち向かい、己を保ち続けられたら、自分の夢の中で思いのままに止めを差せる。
俺はこの夢魔と対等でいられるだろうか。
「いいぜ」
唐突に片手を上げた夢魔に式は目を見張らせた。
強大な力を持つ妖魔をこうも容易く動かせるとは思ってもいなかった。
「俺を殺すんだろう?」
寝転がったままの夢魔は手をひらひらと翳す。
戸惑う式はその手を握り返せないでいる。
禍々しい空気を孕んだ部屋が一際激しく軋み始めた。
天井から落ちる塵が、虫が、蝙蝠が、足元で一気に嵩を増していく。
目の前の寝台も小刻みに振動して今にも壊れそうだった。
先ほど式と入れ違いに出て行った動物が通路で断末魔じみた鳴き声を頻りに上げている。
まるで世界の終わりが来たかのような。
「早く」
窓の方を見ると白い光がいっぱいに滲んでいた。
清浄な世界に満ちていたそれとよく似た光が。
「式」
名を呼ばれた式は再び夢魔を見た。
夢魔は崩壊しかかっている部屋に怯むでもなく、悠然と寝転がったまま、式をただ見つめていた。
鴉の羽の如く黒き不穏なその世界が終わりを迎えようとした時、式は、己を望むその手をとった。
「お前の夢は醜悪で不吉で残酷で」
深海から浮上する泡沫のようにゆっくりとした目覚めの中、式はその声を夢現に聞いた。
「そして何よりも美しかった」
「……貴方が悪夢を見たというの、夢魔よ」
うっとりとした声の後に、ひどく掠れた呟き。
式の瞼に力がこもる。
覚醒はすぐそこまで来ていた。
「悪夢の中で溺れ死ねばよかったのに」
疲れた声に低い笑声がさも愉悦そうに返答した。
式は忙しげに瞬きする。
ぼんやりとした視界に写るのは漆黒の睫毛の下に現れた清澄なる双眸。
彼女は目覚めた。
身の内に閉じ込めていた夢魔に逃亡を果たされて、自ら望んだ永劫なはずの眠りから。
「さようなら、我が半身だった俺の夢」
そう囁いて彼女の額に口づけたものは。
「な……ぜ、ここに、お前、が」
寝台に眠る彼女のそばでうつ伏せていた頭を擡げ、式は、すぐ傍らに佇む夢魔を驚愕の眼で見上げた。
自分の夢に引き寄せたつもりだった。
そもそも現実世界で夢魔が形を成すなどありえない。
人の夢を渡り、内から食し、外では生きる意味さえ持たぬ夢魔が目の前にいるのは信じられなかった。
「これは夢じゃあない、もう一人のハンターとやら」
黒ずくめの夢魔は寝台の端に腰掛けて足を組んだ。
長い眠りから目覚めたばかりの彼女は何もかもが億劫なのか、他人事のように素っ気ない態度だ。
式だけが調度品のイスに座ったまま呆然としていた。
「もう一人の……ハンター?」
「この女もそうだ。こいつは自分の人生を投げ出して夢魔の俺を身の内へ封印していた。永遠に朽ちない夢と共に生き続けていくつもりだった」
流れる長い黒髪を弄って、戯れにキスをし、夢魔は式を見て笑う。
「お前のおかげで俺は解放された」
それは夢の中で式が抱いた疑問を解決させる、辻褄の合う話であった。
夢魔が巣食っていたのではない。
彼女が夢魔を蝕んでいたのだ。
清らかなる理想の夢で穢れた悪夢を浄化し、ものの見事に光の影としてその威力を抑えていた。
「まあ、こいつの弱さも手伝ったがな。所詮は人間だ。悲劇なる決意はいつの日か揺らぐものさ」
そして彼女はゆっくりと身を起こした。
夢魔が手にしていた髪の束がさらりと掌から零れ落ちる。
霞んでいた瞳は壁際で息を潜めていた彼を捉えると、俄かに揺らぎ、より強い色を浮かべた。
「もう耐えられなかったんだ」
私を起こさないで。
彼女は彼とそう約束を交わして眠りについた。
五十年を経て、その約束を一息に破り捨てた彼はその場に蹲った。
震える両手で皺の刻まれた顔を覆い、未だに若く美しい想い人の眼差しに中てられて喉奥に嗚咽を滲ませる。
彼女は微笑んだ。
式が目の当たりにした夢の片鱗がその横顔を通り過ぎていく。
長年横になっていた体は思うように動かせず、彼女はしなやかな両腕を使って寝台を這い、床へ移動しようとした。
式はすかさず手を貸そうとしたが夢魔に止められた。
それどころかイスから強引に立ち上がらされ、部屋からの退去を余儀なくされた。
ドアを閉じる間際、肩越しに顧みると、長い服の裾を引いて人魚のように床を進んでいた彼女へ両腕を差し伸べる彼が――。
「私は貴男の声をずっと聞いていたわ」
二人を分かつ残酷な悪夢はやっと閉ざされた。
「何故ついてくる」
「気に入ったからだ」
「ついてくるな。勝手に気に入るな」
「つれないな」
心なしか霧が薄れた林の中を式は足早に突き進む。
その背後を執拗に颯爽と夢魔がついてくる。
日暮れを控えた空は夕日に滲んでどこか懐かしく柔らかな日を木々に注いでいた。
「そもそもどうして夢魔なのに実体がある、貴様は」
「俺のことを知りたいか?」
式は立ち止まって水晶色の鋭い双眸を睨みつけた。
夢魔は平然と剣呑な視線を受け止めている。
長い髪はハーフアップに縛られてロングジャケットを羽織る逞しい肩にかかっていた。
妖気は箆棒だが外見は人間そのもの。
極端に薄い瞳の色合いと精悍な容姿が人目を引く程度だろう。
「お前、俺を殺すんじゃなかったのか」
式は返事をせずに眉間の皺を一つ除いて今一度目の前の妖魔を見返した。
こいつは彼女の夢を美しいと言った。
昔はどれだけ凶悪だったか知れないが、彼女と長い間夢を共にし、少なからず人の感性に近いものを否応なしに手にしたのではないだろうか。
妖気は箆棒だ。
だが、悪意は感じられない。
しかしこのまま野放しにしておくのも気が引ける。
もしかすると、この状態が一番よいのだろうか?
「勝手についてきたらいい」
式の言葉に夢魔の隹は笑う。
式はそっぽを向いて歩き出す。
霧の途切れる先へ、まだ見知らぬ土地へ、悪しき妖魔から人を救うために。
世にも傲慢な美しい悪夢を従えて。
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