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目醒めよ悪魔-3
その男はある日突然式の前に現れたかと思うと薮から棒に告げたのだ。
「お前を愛してる」
彼の名は隹といった。
いつも黒服を身に纏った、青水晶の鋭い双眸を持つ男。
「俺は悪魔だよ」
彼の背中から一瞬にしてメキメキと生えた黒褐色の蝙蝠羽根を髣髴とさせる翼。
「高慢ちきなお前にはお仕置きが必要だな」
寝室に閉じ込められ、身も心も余す事なく隅々まで尽く蹂躙され、精神はボロボロで幾度となく発狂しかけた式。
が、意外にも甘く優しい悪魔の口づけにより何とか現実に繋ぎ止められていた。
一年後、寝室からやっと解放された式。
が、悪魔の隹から自由になったわけではない。
「お前は俺のもの」
そう言って日がな一日式に寄り添う隹。
一年間放置されていたリビングは何故だか廃墟の如く打ちひしがれていた。
インテリアは蜘蛛の巣で飾りつけられ、まるで見覚えのない、昔の死刑囚さながらに麻袋で頭を包み隠したもの達がかさこそと這い回っていた。
「あれは俺の瘴気に誘われてやってきた死霊だ、気にするな」
解れまくったソファで膝枕してやっている式に隹は優しく囁く。
隹に膝枕されている式はうろつく麻袋達を力なく眺めるだけ。
とにかく疲れていた。
疲れ果てていた。
「……誰か来たようだぞ?」
隹がそう口にした直後に鳴り響いた呼び鈴。
式はのろのろ立ち上がると、邪魔な麻袋達にぶつかりつつ玄関へ向かった。
扉の向こうにいたのは恋人のセラだった。
「ああ、貴方、一体どこで何をしていたの? いきなり行方不明になって、いきなり戻ってくるなんて……え、あれ、何? 誰かいるの? どうして麻袋なんか被っているの? ゲームか何か? ねぇ、何か言って、お願い!」
必死こくセラに肩を掴まれて式は前後にがくがく揺さぶられた。
「おい、乱暴をするな、暴力女が」
「やだ、この人、映画館で私達のすぐ隣に座ってきた空気が読めない男じゃない」
「物覚えがいいな、色目女」
隹はセラの目の前で放心気味の式に熱烈なキスを。
「キャー!」
セラが真っ青になって凍りつくのを尻目に隹は甘い口づけを愛しい式に堂々と捧げる。
放心していた式は、身を捩り、頬を赤く染めた。
「いやー! 貴方、やめて、そんな変態男に感じないで!」
我に返ったセラは隹に腰を抱き寄せられている式を懸命に引き剥がそうとする。
騒ぎを聞きつけた麻袋達がわらわらと寄ってきた。
その時。
式が何かを呟いた。
久し振りの愛しい声を耳聡く聞きつけた隹は惜しいながらも口づけを中断し、焦点を取り戻した双眸を覗き込んだ。
「どうした?」
「何? 何を言いたいの!?」
前後から問いかけられて、式は、震える声で答える。
「は……腹が空いた」
長らく使用されていなかったキッチンを血眼になって掃除したセラは、至急買ってきた食糧をダイニングテーブルに並べられるだけ並べてワインまで用意し、式を椅子に着かせた。
狂的な食欲に突き動かされて、式は、最低限のテーブルマナーは守って久方ぶりの食事に一心に耽り出した。
「ああ、貴方……」
セラは一年ぶりに再会した恋人の食事ぶりに感極まって涙ぐむ。
一方、式の向かい側に着席した隹はその様を不敵な眼差しで鑑賞していた。
ああ、全く、満たされない。
寝室に閉じ込められている間は感じなかった強烈な飢えに、今、支配されている。
食べても、飲み込んでも、胃袋に溜まらない。
まるで俺の中にもう一つ、別の口があって、それに横取りされているような。
「う」
数時間、食事に耽っていた式が突然、一時停止に陥った。
転寝しかけていたセラはごつんとテーブルに額をぶつけ、その衝撃で慌てて覚醒し、フォークとナイフを握ったまま硬直している式に目を見張らせた。
「どうしたの? 喉に詰まったの?」
違う。
痛い。
腹が痛い。
「あ……!」
その場で椅子ごと引っ繰り返った式にセラは大慌てで駆け寄る。
床で悶絶している式。
数時間あれだけ延々と食べ続けたというのにシャツの下に覗く腹部はぺったんこのままだ。
「あ、救急車、呼ばないと、彼が死んじゃう」
「余計な真似をするな、飯炊き女」
それまで椅子に座ってじっとしていた隹は悶え苦しむ式の元へ大股で歩み寄ると跪いた。
「生まれるぞ」
「何、言ってるの?」
「落ち着いて深呼吸しろ」
「ちょっと、何?」
「俺がついているから大丈夫だ」
セラが混乱し、麻袋達がテーブルの周りに群がる中、隹は顔面蒼白の式に触れた。
死人のように冷たい肌を撫で、呼吸を荒げる唇にまた、キスをする。
「もう、それ、やめてよ」
セラが金切り声を上げても隹はキスをやめない。
息ができない式は大きく口を開く。
隹はさらに唇を深く塞ぐ。
「やめて!彼が窒息するじゃない!」
セラが喚く。
窓や壁に亀裂が走る。
麻袋達が怯える。
式は目を見開かせた。
隹は尖らせた牙に触れた歯応えに青い眼を光らせた。
そのまま噛みついて式の奥から引き摺り上げる。
ずるううううっっっ
式の口から引き摺り出された、隹が咥えているソレに、セラはあわや失神しかけた。
が、大好きな恋人の式が苦しげに咳き込んだので、慌てて体を抱き起こし、汚れた口元を母親のように拭ってやった。
「貴方、ねぇ貴方、あれは何?」
「お……俺にもわからない……」
やっと一年の呪縛から解放された式は自分でも口を拭い、裂けた口角の痛みに切れ長な双眸を歪ませ、呻いた。
ソレを咥えて立ち上がった隹を驚愕の表情で見上げる。
隹はソレを両腕で抱き抱えると式を見下ろして笑った。
「よく持ち堪えたな」
「そ、そ、そ、そそそそそれは」
隹の両腕の中でゆっくりと動いたソレに式は絶句する。
「お前の蟲だ」
そう言って、隹は、式によく見えるようソレを斜めに翳した。
「う」
式はソレと目が合うなり失神した。
特注の揺り篭で眠る蟲。
母を恋しがって鳴くと、切れ長な目をした綺麗な青年が複雑な表情を浮かべて覗き込み、抱き上げてくれる。
隣で悪魔が笑う。
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