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The nameless-2

アジトに残っていた部下は十名にも満たない数であった。 皆、銃を構えている。 その先には広間の壁際に追いやられた、明らかに頭の中を狂気に巣食われている男がいた。 目つきが据わっていない。 たまに激しい瞬きを繰り返しては所構わず辺りを睨みつけている。 全身が震えに苛まれているようで、時折著しい痙攣も見受けられた。 狂った男の腕の中にはあのガキがいた。 「よぉ、ボス……久し振りですね」 男には見覚えがあった。 片耳をなくした、片耳の男。 以前に俺が削ぎ落としたのだ。 ヘマに対する仕打ちだった。 部下であったが、組織を抜けた後の行方は気にもしていなかった。 この屋敷への侵入者はこういった類の者が過半数を占めているのだ。 「どうしますか、ボス!」 腕を伸ばして男に銃口を向けている部下が大声で尋ねてきた。 普段なら、俺の教え通り、仲間を人質にとられても容赦なく銃殺する奴等が、一定の間隔をおいて男を牽制している。 俺は苦々しくて馬鹿馬鹿しくなり、舌打ちした。 ガキは大きく瞳を見開かせて涙を流していた。 ただ、泣き声一つ出さず、そこで囚われの身となって。 「これは、あんたの子かい……? まさかな、ちっとも似てやしない……」 男がぶつぶつと独り言を洩らす。 俺は、自然と左右に分かれた部下達の合間を歩き、先頭に立った。 「お前の望みは何だ」 男はナイフを握っていた。 それは細く白いガキの首筋に宛がわれており、指先が過剰に震えているため、すでに滑らかな皮膚を赤く傷つけていた。 「も、もちろん……お前の死だ、クソッタレ……お、俺の耳を奪いやがって、畜生……あん時の痛みがまだ残ってる、ん、だぜ」 俺は、懐に仕舞っていた銃を構えた。 男の恨み言を最後まで聞くつもりは毛頭なかった。 瞬時に安全装置を外して、一発で男を仕留められるよう狙いをつける。 「俺の望みも貴様の死だ」 「おい……このガキがどうなってもいいのかよ?」 長い髪を鷲掴みにされ、小さな顔が痛みに歪んだ。 狙いを違えずに、俺は、あの苛立ちと、それとはまた異なる激情に襲われて、眉をひそめた。 「俺は死んでもいい……その覚悟でここに来たんだからな……こ、このガキを殺したら蜂の巣になるだろうよ……でも、絶対に、お前も道連れにしてやる」 男が何やらぶつぶつと語っている。 俺はそれらを聞き流し、甚だしく不愉快な激情に気分を害され、いっそ二人共々殺してやろうかと引き金にかけた指を力ませた。 しかし些かの躊躇を覚えもする。 あの美しい塊が男の穢れた血で犯されるのは、何だか、とてつもなく、忌まわしくて、堪らない……。 「貴様に俺が殺せるか?」 尋常でない震えを目の当たりにしながら一つの予測を立てた。 あの震える手では的は定まらない。 それに拳銃ならまだしも、ナイフだ。 心臓を狙ったとしても必ず外す。 ろくな力も籠められないだろうから致命傷には至らないはずだ。 たとえ拳銃を隠し持っていたとしても、持ち替える隙に、袖口に常時忍ばせているナイフを眉間に突き立ててやる。 これまでの経験を踏まえた上で決断した俺は隣にいた部下に銃を手渡した。 「ボス……」 「いいだろう、殺されてやろうじゃないか」 男はガキにナイフを突きつけたまま、相変わらず不安定な目つきで異様な笑いを発した。 「よし、こっちへ来いよ……お前等は動くんじゃねぇぞ」 男のいる位置まで数メートルある。 俺は悠然とした足取りで、その距離をゆっくりと縮めていく。 ガキは恐怖で竦んでいるらしく、その切れ長な瞳を大きく見開かせたまま、呼吸すら忘れているようだった。 可哀想なガキだ、お前はそういう運命にあるんだろうな。 男のナイフに自分の影が写し込まれるところまで来て、俺は声を立てずに笑う。 その時だった。 ガキが男の手に噛みついた。 俺の接近に興奮していた男は人質への注意を完全に手薄にしていたのだ。 奇声を上げ、両腕の束縛を緩める。 よろけるように横へ逃れようとしたガキの背中を男は睨みつけた。 ナイフの刃先が、俺でなく、ガキを追いかける。 俺はフロアを蹴った。 何の予測も立てられず。 何も考えられなかった。 俺は抱き込むようにしてガキに覆い被さり、次の瞬間、左肩に焼けるような痛みを感じた。 そして、その後には銃声による葬送曲。 男は案の定蜂の巣にされてあの世に追い払われていった。 「ボス、大丈夫ですか!?」 「早く医者を呼べ……!」 病院嫌いの俺は病気や外傷を負った時には医者を屋敷に招くようにしてある。 部下の一人が携帯電話で慌ただしく連絡するのを聞きながら、重たげに手負いの身を起こした。 痛みよりもこの甘い香りに呑まれそうだ……。 「……大した傷じゃない」 ガキは俺の下でじっと蹲っている。 俺は左肩に手をやり、慣れた痛みと血の感触に舌打ちした。 ガキはまたも気を失っていた……。 久々に深い睡眠をとり、倦怠から覚醒すると、目の前でガキが眠っていた。 「……」 俺のベッドに頭を乗せてうつ伏せている。 部下が用意したのか、調度品の一つである高額な肘掛け椅子に浅く腰掛けていた。 長い髪がシーツの上に散らばっており、俺は、何とはなしにその一束を手にとってみた。 馬鹿な真似させやがって。 俺は肩に燻る痛みが忌ま忌ましくて、悔し紛れに長いセピア色をきつく握り締めようとした。 ガキの肩がぴくりと揺れた。 覚束ない睦言を洩らし、非常に遅々たる仕草で顔を上げる。 まだ眠たそうな表情をしており、頻りに白い手で目元を擦っていた。 「……あ」 俺と目が合うと真っ赤な瞳を瞬かせた。 また、いつものように目尻に涙を滲ませる。 「……ごめんなさい」 シャツ越しに覗く包帯に視線を向けて、ガキは過呼吸のようになりながらもその言葉を懸命に吐き出した。 ……こいつ、まさか、まだ俺の言った事を……。 「泣いていい」 喉を引き攣らせていたガキがまた大きく瞬きする。 「泣いていいんだ」 溢れ出た涙が頬を伝って唇の脇へと落ちていく。 絵画が涙を流している、と俺は妄想じみた事を思った。 「う……」 ぎゅっと目を瞑り、ベッドに乗り上がってきたガキは、半身を起こした俺の胸にしがみついて泣いた。 大声を上げて惜しみなくその感情を露にした。 ガキが泣き喚いている間、俺は昼下がりの風にはためくレースカーテンをぼんやりと眺めていた。 溜め込まれていた感情の遠吠えは屋敷中に響き渡った事だろう。 「お前、名前は?」 やっと泣き止んだガキに俺は問いかける。 「……式……」 泣き腫らした顔を俺の胸に埋めて、少女のような少年は呻くように答えた。 長い髪に触れたいような、そうでないような心地で、少年の名を口の中で反芻する。 悪性の病にも似た如何わしい棘を呑み込んだかの如く、何らかの胸騒ぎを感じずにはいられずに……。

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