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Shadows/謎の男×謎の獣

■古代より生き続ける厳粛なる森の懐で男と獣は出会う。 『たとえ亡霊に成り果てようと輪廻の波を超えて』 否、再会と言うべきか。 地に伏した美しい獣は血を流していた。 古代から生き続ける大木の緑に閉ざされた、深い森の懐に抱かれて。 遥か頭上より降り注ぐ雨を生い茂る枝葉が遮るようにして無数に伸びていた。 おかげで滑らかな漆黒の毛並みは雫の一滴にも濡れていない。 傷口から流れる獣自身の血が己を赤く染め上げていくばかりだ。 双眸を閉ざした獣は微かな呼吸を繰り返していた。 姿形は狼によく似ている、しかし、こうも美しい漆黒に覆われたしなやかな肢体を持つものを目の当たりにするのは初めてだった。 息も絶え絶えという有様なのに神々しくさえ見える。 暗闇を身に纏ったような、静謐なる夜の産物と思わせるような。 深手の体でありながら唸り声一つ上げないその気高い様も作用しているのかもしれない。 しばし我を忘れて漆黒の獣を見つめていた隹は、やっと地面に根づきかけていた足を動かした。 「……」 その時、獣は初めて声を上げた。 閉ざしていた双眸が見開かれて隹は再び息を呑んだ。 闇夜に差す月光とよく似た眼光を宿す双眸に睨みつけられて、思わず足を止めた。 「何もしない」 獣の脇腹に突き立てられた刃、傷口から流れ出る血に目をやって隹は言った。 「お前を助けたいだけだ」 一歩、また獣へ近づいた。 獣は唸るのをやめない。 地に投げ出していた四肢を震わせ、緩慢な動作で手負いの身を起こそうとした。 「やめろ」 さらに溢れ出た血を見、隹は獣に命じた。 「動くな」 猛りを帯びた風が吹き抜けた。 葉が舞い狂い、雫が踊り、無数の枝が音を立てて撓る。 ハーフアップに纏め上げられた隹の長い髪も靡いていた。 水晶色の鋭い双眸は微動する事なく、金色の眼光を射抜いていた。 深い泉を髣髴とさせる眼に今度は獣が静止した。 血肉を蝕む激痛さえ忘れて、目の前の人間に釘づけとなった。 この男は何者だーー。 「見つけた」 獣は愕然となった。 隹の後ろにいつの間に現れたそれを見つけ、手負いのため低下していた己の五感を心底呪った。 隹は振り返って自分の背後に立つ者を見た。 「樹海になんぞ逃げ込んでも意味はないぞ」 そこにいたのは一人の少女だった。 喪に服した出で立ちで胸には大きなお包みを抱いている。 雨に湿る黒いレースの奥に隠れたあどけない顔には死に化粧が施されていた。 この森に何もかもがひどくそぐわない、違和感の塊であった。 「主の屋敷へ連れ帰られて無様に殺されるがいい、仲間のようにな」 先程から少女の唇は一度も動いていない。 声はお包みの中からしている。 しわがれた卑しい声だ。 かさかさに乾いた唇から懸命に押し出されているような掠れた声だった。 隹は突然現れた闖入者に動じるどころか、冴え冴えとしていた表情に明らかな嘲笑を含ませた。 「どけ、見知らぬ人間よ」と、お包みから響いた声に彼は不敵に一笑してみせる。 「今日は珍しいものばかり見る日だ。世にも見目麗しい漆黒の獣に……」 隹はロングジャケットの裾を猛禽類の翼の如く翻させてお包みを見据えた。 「ダンピルと、その下僕」 お包みの中から奇怪な声が上がった。 耳を塞ぎたくなる金属音さながらの聞くに堪えない奇声が。 獣もまた目の前に立つ隹の背中に不可思議な視線を向けた。 交わされる会話を理解し、まるで驚いたとでもいう風に。 「こ、ろ、せ、殺せ、殺せぇぇぇええ!」 お包みの中から悲鳴の如き命令が下されたのと、すぐそばに聳える大木の葉隠れから残忍な光放つナイフが繰り出されたのは、ほぼ同時であった……。   少女の胸の内で醜く干乾びた赤子は呟く。 「あれは何だ、あの男は……」 主の屋敷から捕獲隊として引き連れて来た手練れ共を全て殺した、あの人間は。 「あいつは何者だ……」 大木の狭間を俊敏に走り抜ける寡黙なる少女の胸の内で、吸血鬼と人との間に生れ落ちた哀れなる骨なしの肉塊、ダンピルは、震える声音でそう呟き続けた。

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