132 / 198
Shadows-2
引き抜かれた刃に獣は身を痙攣させた。
隹は脱ぎ捨てたシャツをすぐさま裂き、瞬時に獣にあてがい止血した。
残りの布地を胴体に巻きつけると固く結び、包帯の代用にする。
「夜になるとここは凍てつく」
隹は裂肉歯を剥き出しにして痛みに堪える獣をしばらく撫でさすってやり、一息つくと、ジャケットで覆った獣を抱き上げた。
その相当な重さに両足をふらつかせるでもなく、平然とした表情と足取りで先へ進む。
つい先刻死者と化したばかりのものを跨ぎ、避けて、さらに森の奥深くへと分け入っていった。
「せっかく助かったんだ、凍死は嫌だろ? 俺の住処へ招待してやる」
獣は逞しい色白の両腕に大人しく甘んじていた。
追っ手から逃げ続け、一時も休まらずにいた末に深手を負った体が休息を得たがっていると、今猛烈に感じ取っていた。
獣は隹の腕の中で眠りに落ちた。
痛みも、怒りも、悲しみも遠退いていた。
今はただ心地のいい温もりがすぐそばにあるだけだった。
森に夜が降りた。
降り頻っていた雨はやみ、広大な雲の狭間に満月が覗いていた。
風も凪いで深い樹海は粛然と静まり返っている。
濡れた草木が月明かりに煌めいて濃厚な香りを生じさせていた。
樹海に呑まれるようにして建つ館があった。
古風な城を思わせるゴシック風な外観で、蔦が絡む灰色のレンガ壁は木々の狭間に滲む月光を反射して重厚さを醸し出していた。
世にも凄惨な宴が繰り広げられていそうな雰囲気である。
厳めしい面構えのガーゴイルは暇を喰らい、錆びついたノッカーはその役割を時の彼方に置き去りにされつつあった。
扉の向こうでかつては豪奢に光り輝いていただろう調度品は蜘蛛の巣で夜気を遮る始末。
シャンデリアも暖炉もどれも冷えきっている。
虚無を主としているかのような館だ。
だが中二階の奥間から通路に零れる橙の光があった。
館の真の主、隹がそこにいた。
天蓋の剥げかけた大きな寝台に獣を寝かせ、自分は軋む長椅子に身を横たえて夜の静寂に耳を傾けていた。
やがて忍び寄る睡魔に誘惑されて隹は眠りへと引き込まれた。
寝台の傍らで点されていたランプの火が弱々しげに揺れていたかと思うと、消えた。
静けさの中に些細な衣擦れの音が溶けていく。
寝台からゆっくりと起き上がった影は絨毯の上を覚束ない足取りで進み、痛みに上擦る声を抑え、長椅子へと辿り着いた。
隹は身動きしない。
頬に流れた長い髪の下で瞼が持ち上がる気配はなかった。
影は、自分にかけられていたブランケットをそっと隹にかけた。
そして自分は長椅子の傍らに蹲り、彼のすぐそばで再び眠りについた。
影の名はヴァルコラクといった。
月にまで駆け上がり月蝕を起こすと言われる伝説の怪物。
狼によく似た獣から人間の姿にも変身するという、吸血鬼の一種。
そのヴァルコラクは己を救ってくれた隹を主と定めたようだ……。
「あの子がほしい」と、隻眼の男は呟いた。
肌が粟立つような冷気の漂う広々とした地下室の中央、剥製にされた漆黒の獣達が凍りつく薄闇の墓所で見目麗しき微笑を浮かべ、最も美しいヴァルコラクの末裔に思いを馳せた。
「あの子は、あの子だけは生きたままで。その息づく様をいつまでも見ていたい……」
「この命を貴方に捧げる」と、影なる彼は誓った。
訪れた一筋の朝の光に瑞々しい肌を艶めかせて、切れ長な双眸に水晶の眼を写し、隹の足元に跪いた。
「この全身全霊が灰になろうとも、最期の息吹で魔手を退き、打ち砕こう。たとえ亡霊に成り果てようと輪廻の波を超えて」
貴方のそばに。
永遠にも等しい深さある記憶の海の中で隹は一つの思い出を手繰り寄せる。
淡い色の草花が散らばる広大な草原。
どこまでも青く澄み渡る晴れやかな空。
清々しい薫風が地平線へと吹き抜けていく。
「なぁ、隹」
萌黄色の絨毯に仰向けに寝転がっていた隹は目を開く。
すぐ頭上には美しく微笑む彼が。
「もしも俺が死んでしまったらお前は独りになってしまうな」
少し冷えてしまった指先が頬の上を辿って額を撫でる。
隹は温めてやるようにその指先に口づけて、自分の全てである彼に戯れに願う。
「たとえ亡霊に成り果てようと輪廻の波を超えて俺のそばに戻ってきてくれ」
不死という枷に繋ぎ止められた隹の願いに、彼は、幸せそうに笑った……。
ああ、そうか。
お前だったのか。
約束通り、戻ってきてくれたんだな、式。
ともだちにシェアしよう!