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汝の隣人を愛せよ-5
あくる日の帰り道、式は決めた。
今日こそ隹の部屋へ行こう。
ノックして、現れた彼に「中、入ってもいいか」と声をかけてみよう。
……少し図々しいだろうか?
いや、真夜中にシャワーを借りにくるより断然紳士的じゃないか。
……面倒くさがられるだろうか?
俺はいつだって真夜中の訪問を受け入れているんだ、向こうはとやかく言える立場じゃない。
アパートに着いた式は階段を一段一段踏み締めて上った。
妙な緊張感に一人苦笑する。
自然な振舞を心がけ、静寂に微かな靴音を立てて通路を進み、隹の部屋の前に差し掛かる……。
いきなり部屋のドアが開かれた。
「ああ、やっぱり、あんただった」
通路で棒立ちになった式を見やって隹は何でもないことのようにあっさり口にした。
「俺の部屋でピザ食べないか」
「……」
「ピザが嫌ならタコス、中華のテイクアウト」
「い、や……ピザでいい、ご馳走になる」
思いがけない隹からの招待に式は自然と頬を緩めて彼の部屋の中へ……。
まるで空き巣に遭遇したばかりのような荒れようだった。
トランクケースが隅に打ち捨てられ、服やら日用品やら写真やらが溢れ出ている。
インテリアにしては居心地が悪くなるような、グロテスクなオブジェ、どぎつい色をぶちまけたキャンバス、空の鳥篭と言った用途不明なガラクタらが壁際を占領している。
写真がとにかく多い。
夥しい数が床にばら撒かれていて、避けて歩くのも困難だった。
「フリーランスのカメラマン」
ダイニングテーブルでビール瓶片手にピザを食べながら隹は式に自分の職業をやっと告げた。
「風景も人体も料理も何でも撮る」
「海外に行ったりも?」
「いや、遠出は金がかかるから、仕事の依頼がない限りは」
「あのトランクは?」
「棚がないから代わりに使ってる」
式は改めて雑然たる部屋を見回した。
確かに一眼レフのカメラが至る場所に無造作に放置されている。
いくら眺めても一向に飽きない。
彼らしいディスプレイというか……。
「知り合いと街中のアトリエを共有してる。そこでフィルムの現像作業をやってる」
「ふぅん」
「ここでも時々」
「ここで?」
「見てみるか?」
ピザを食べ終えた隹は飲みかけのビール瓶を手にすると式を促した。
案内された先はバスルーム。
ドアを開くと目の前には暗幕が垂れ下がっており、捲れば真っ暗で、中の様子は全くわからない。
隹は明かりを点けた。
「すごい」
式はつい声を洩らした。
バスルームはちょっとした現像室に改造されていた。
テーブルが設えられ、印画紙にフィルムを投影するための引き伸ばし機、そして現像液、停止液、定着液の入ったバットが蓋をされて置かれている。
バスタブの底にも水洗用である広めのバットが。
バス用品を常備しておくための棚にはサイズ違いの印画紙が揃っていた。
印画紙を乾かすため、天井には紐が巡らされ、何枚かプリントされたものがクリップに挟まれてぶら下がっていた。
「これじゃあシャワーが使えないだろ」
「そのバットをどければ使える。まぁ、大体知り合いやあんたに借りるがな」
「そういうわけか」
「そういうわけだ。一枚、焼いてみるか?」
被写体が焼き込まれた印画紙を繁々と眺めていた式は振り返った。
隹はテーブルに片手を突き、瓶を傾けて残りのビールを飲み干しているところだった。
「大したモンは写っていないがな」
タイル張りの壁に設置されたセーフライトを点灯させると出入り口にあるスイッチを押してバスルームを暗くした。
室内が赤い光にぼんやり浮かび上がる。
隹は棚から印画紙の箱を取り出すと、露光防止用の黒い袋に包まれている印画紙を一枚取り出し、固定用のイーゼルに装着した。
「フォーカスと露光時間は合ってるはずだから、そのスタートボタンを押してみろ」
「これか?」
引き伸ばし機本体にコードで繋がっている調整ダイヤルのボタンを押す。
すでに装填済みのフィルムが真下の印画紙に投影される。
十秒も経たない内に露光時間は終わった。
隹はバットの蓋をすべて開けると、一番左にある現像液に印画紙の端を摘まんで投入した。
「ほら、これで攪拌しろ」と言って式に竹製のピンセットを渡してくる。
「……攪拌って、こんな風に?」
「ああ、時々現像面を確認しろよ、真っ黒になるから」
「現像面って下側か?」
「そうだ」
式が竹ピンで印画紙を引っ繰り返してみると、まだはっきりしないが、像が浮かび上がりつつあった。
「どれくらいここに入れておくんだ?」
「画像がはっきり出るまで。自分で判断したらいい」
街並みのようだ。
白黒で、無数の粒子達が徐々にせめぎ合い始める。
「次はこっちだな?」
「ああ」
一応、隹に確認して、隣の停止液に印画紙を移した。
バスルームに漂う匂いの元はこれのようだ。
「臭いな」
「酢酸だからな。女には毎回不評だった」
「……」
「もう隣の定着に移していいぞ」
停止液に浸けるのは十秒ほどで済んだ。
隣の定着液に現像面を下にして投入する。
「定着は二、三分。で、水洗して乾かして終了」
「……ああ」
「乾燥機があれば早いんだがな、あれを使うとブレーカーが落ちる」
式は力なく竹ピンで定着液を攪拌させている。
さっきまでと比べて横顔がどことなく沈んでいる。
隹は素直過ぎる式に唇の端を吊り上げた。
素早く、二台のセーフライトをオフにしてしまう。
暗室は暗闇に包まれた。
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