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Loveless-2

静寂の夜、殺風景な地下室の片隅で式はセラが持ってきてくれた毛布を枕代わりにし、壁を見つめていた。 皮膚は冷えているが血肉の狭間では相変わらず炎が逆巻いている。 膨大な疲労はあるものの今は眠る気にもなれなかった。 瞼を閉ざすことさえ疎ましい。 これまで自分の犯した罪が蘇り、あまりにも深すぎる血の海に溺れそうで。 一筋の光も届かない暗黒の檻に堕ちていきそうで……。 「……」 式は光の名を呟いた。 何よりも眩しい、純真で自分とは真逆な者の名を。 俺には遠い。 遠くて、近づけない。 決して越えられない隔たりがあるから。 俺と君の過去はこんなにも違うから。 吊り下げられた裸電球が頭上で鈍く点滅し、式は揺らめく陰影をしばし虚ろな眼差しで眺めていた。 ふと、地下室への階段を下りる足音がドア越しに伝わってきた。 女性のセラではない。 式は上半身を起こし、虚ろだった目つきを俄かに凛然と尖らせた。 「寝心地はどうだ」 ドアを開けた隹は深靴で段差を小気味に鳴らし、地下室へと降り立った。 昼と同じ様子で壁際に寄ると式を不遜に見下ろす。 式は突然の来訪に動じるでもなく敵幹部をねめ上げた。 「今宵は眠らないのか。昨夜は魘されるほどの眠りについていたっていうのに」 その言葉に式はつい目元を震わせた。 明らかな態度の変化に隹は愉悦する。 水晶色の双眸をより嗜虐的な笑みで満たすと傷ついた捕虜を嘲笑した。 「余程の夢を見ていたんだろうな。誰かの名前を呼ぶくらいに恐ろしい悪夢だったか」 式は唇を噛んだ。 塞がりかけていた傷が再び裂け、錆びた味が口内にじわりと広がった。 「お前が殺した奴か? それとも欲しくてやまない奴か」 「やめろ」 「誰の名を呼んでいたか教えてやろうか」 「黙れ!」 次の瞬間、式は容赦ない力で引き起こされた。 はだけた襟元を掴まれて背中から壁に叩きつけられる。 一瞬呼吸ができなくなり、視界が暗闇に閉ざされかけた。 「そんなに死にたいか」 片手で喉を締め上げられる。 骨の凹凸に乾いた掌の熱が絡み、歪に軋んで、式はつい呻いた。 「何なら今この場で殺してやろうか」 さらに力が込められた。 式は歯を食い縛り、手錠で拘束された両手を振り翳そうとした。 予想通りの動きに隹は即対処する。 以前に自分が負わせた深手をもう片方の手で無遠慮に刺激し、えげつない痛みを与えた。 「愚かだな、易々死んでいけばいいものを」 激痛に眉根を寄せる式の耳元で隹は囁いた。 「そんなに苦しみたいのか」 筋張った指先がシャツ越しに傷口を抉る。 式は喉奥で悲鳴を押し殺し、切れ長な眼に殺意の炎を宿らせて隹を見据えた。 「苦痛が好きな性質か?」 「…黙、れ」 「そうだな、確かにお前には死にたがる傾向がある。大して強くもないのに非力な奴を助けようとして、余計な傷を負う。結局は共倒れというわけだ」 隹も式を見た。 互いの視線が濃密に重なる。 吐く息も触れるほどに、近い。 「お前が周りに死を齎すんだ、式」 この男からは死の匂いがする。 俺と、同じ、匂い。 奈落を夢見てばかりいる俺が君の理想に辿り着けるわけがなかった。 君のそばには居場所さえなくて、息をするのもつらくて、行き場に迷って。 ただ孤独を感じた。 俺だけが異質なものだと。 その唇は無意識に近づけたわけではなかった。 伸ばした舌先も潜めた呼吸も、閉ざした瞼も、自ら望んで及んだことだった。 「ッ……」 それは唐突な口づけだった。 だが隹は戸惑いも躊躇もせずに受け入れた。 壁際に追い込んでいた、傷ついたしなやかな体を荒々しく抱き寄せる。 口腔を犯すように貪り、血の味がする唾液をふんだんに絡め取った。 わかっている、わかっているんだ。 式は隹と唇を食み合いながらうっすらと目を開ける。 これは履き違えられた欲望。 皮膚の内に滾る火が肉欲まで蝕み、勝手に熱の上昇を加速させている。 だけどこの男と俺が同胞なのは確かだろう。 二人とも深い血の海に溺れた罪人。 「殺すように抱いてやろうか、式」 隹が式に鋭く笑んでみせる。 屈強な肩に両手を預けた式は濡れた唇で、言った。 「殺すように愛してやろうか、隹」 水晶の双眸に揺らぎが過ぎった。 再び唇を重ねた時には跡形もなく消え失せた、幻影の如き一瞬だった。 やがて壁伝いに崩れ落ち、逞しい体に覆い被さられた式は束の間の夢を見る。 隔たりのない同胞の抱擁に歪んだ安息のひと時を。

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