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ねこになりたい-2
境内の池でのんびり泳ぐ鯉らを式は真剣な眼差しで凝視していた。
「お魚」
しゃがみ込んで今にも池の中へ突入しそうな小さな猫又に、特に注意するでもなく、大きな猫又の阿羅々木は寡黙に寄り添っていた。
マナーを一通り把握している式がいきなり池に飛び込んだり、他の生き物を悪戯に殺めることはない、そう認識していたから。
頭上高くでは楠の枝にとまったヒヨドリが鳴いていた。
広々とした敷地を擁する神社には散歩がてら訪れる者も多く、ふたり以外にもちらほら、緑豊かな境内を行き来する参拝客が見受けられる。
都会の片隅、冷たく澄んだ心地いい静寂に甲高い鳴き声が冴え冴えと響き渡っていた。
「耳、どうやって直す? 気合で?」
古びたベンチに移動したふたり。
猫の姿で落ち合うこともあれば、それぞれ違っていたり、今日はどちらも人の姿で午後の穏やかな時間を過ごしていた。
フードを目深にかぶった式の問いかけに阿羅々木は「その内自然と仕舞えるようになる」と実にアバウトな回答を述べた。
不服そうにするでもなく式はうんうん頷いてみせる。
「隹が、阿羅々木は、誰かに飼われてるのかって」
「俺は誰にも飼われていない」
「阿羅々木、隹みたいに、リーマンしてる?」
「会社で働いたことはない。戸籍を買って、定期的に仮初の名を変え、執筆業で収入を得ている」
「こせ……かりそ……しっぴ……」
阿羅々木は初めて聞く言葉ばかりでキョトンしている式の頭をフード越しにゆっくり撫でた。
「ごろごろ」
骨張った大きな手に式は自ら頬を寄せた。
初めて会った、はらから。
おれの仲間。
だいじな友達。
「あの隹という男とずっと一緒にいるのか」
青少年じみた華奢な体にファーフードつきのジャケット、極細スキニージーンズにコンバースを履いた式は首を左右に振った。
「ずっとじゃない」
「そうか」
「おれ、一回、死んだ」
「……」
「そのとき、隹が助けてくれた。死んだおれのこと、拾って、あたためてくれた」
「そうか」
「隹、隹は、おいしいものいっぱいくれる、でも、ときどき、おれがハミガキしなかったり、ずっとゴロゴロしてたら、おいしいもの、くれない、おやつも、くれない」
朝、すまほ、うるさいから、かくしたら、耳、ひっぱられた。
たたんだ、洗濯もの、ぐちゃぐちゃにしたら、耳、どっちもひっぱられた。
「この間、おさら落っことして、わった、隹はまだ会社で、帰ってきたら怒られるって思って、おうちからにげた、そしたら、夜、帰ってみたら、隹、おれのことベランダで待ってた、ぎゅうぎゅうされた、おてて、じろじろチェックされた、ケガしてないなって、またぎゅうぎゅうされた、耳、ひっぱられなかった」
阿羅々木の指を甘噛みしながら式はたくさんおしゃべりした。
阿羅々木は黙って聞いていた。
日だまりで、その内ウトウトして、頭が落ちてくると、自分のコートをかけて膝枕してやった。
「隹、今日のばんごはん、なに……」
寝言で夕食を気にする食い意地の張った小さな猫又に「きっと式の好きなおいしいものだ」と答えた。
式はいつまで生きるんだろうか。
少しばかり残業をこなして帰宅した隹はソファで眠る式を見、ふと、そんなことを思った。
一度死んで息を吹き返した猫又の式。
人間の隹。
もしも俺が先に死んで、俺を見送った後、式はどうなるのか。
『もう独りにしないから』
いつか約束をやぶることになるのか。
「ん……隹……?」
ジャケットやジーンズを脱ぎ散らかし、毛布にしっかり包まっていた式は寝惚け眼で部屋の主を見上げ、欠伸交じりに言う。
「早く、ごはん、早く……おかえり……」
「おかえりより先に飯のおねだりか」
式にとって一番の幸福はなんだろうか。
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