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第3話
毎朝欠かすことなく贈られてきた花の種は、全て店の裏手に植えた。何日も水をやったり肥料を変えたりしたが、肝心の芽はまだ出ない。真っ新な土だけの花壇を見下ろして、白澤は眉間に皺を寄せた。
「お前は一体、僕に何を伝えたいんだよ」
芽吹かない種が口数の少ない鬼の姿と被って、胸の奥が小さく痛んだ。
白澤は衣類の胸元を握りしめて、苦しげに囁く。
「さっぱりわかんねぇよ、ばか鬼」
鬼灯と関係を持ってから、花街へ行くのを躊躇っていたわけではない。
寧ろ積極的に足しげく通っていたのだが、鬼との予定が入ればキャンセルもする。
あちらに甘い顔、こちらに甘い顔、そんなことをずっと続けてきた白澤にとって、現状もさして大きな問題があるように感じられなかった。
その日も当然のように早々に店を閉めて、花街へ出向く予定にしていた。
朝から意気揚々としている師匠に対して弟子は、ただ散財しないでくれとだけ告げて出掛けた。
桃太郎は一晩地獄へ泊りに出るらしい。
「さってと、僕もそろそろ――」
早々に閉店の看板を掛けて、身支度を整えていた白澤の動きがぴたりと止まる。
店の外から漂ってくる地獄の気配を感じた。それは次第に近づいてきているのか、濃い瘴気を含んでいる。
白澤は自室から出て、店内へと移動する。店のカウンターに腰かけて、訪れるであろう人物を待った。
暫くして、店の扉が開け放たれる。閑散とした店内に響くけたたましい音に、兎たちは四方に散らばっていった。
「お前さぁ……色々殺気立ちすぎだろ」
地獄の熱と瘴気を運んできた鬼神は、普段の数倍は凶悪な人相になってしまっていた。
目の下にはクマができ、わずかながら頬がこけている。
「こちとら、三日三晩寝ずの仕事がようやく片付いたところなんですよ」
「だったらなんでわざわざウチに来るんだよ、自分の部屋で寝ればいいだろ」
「……本当にわからないんですか？」
「何がだよ？」
「……いえ、別に」
まただ、と白澤は眉間に皺を寄せる。この頃、鬼灯は言葉を濁すことが多くなった。
今日だって眉間の皺がいつもの倍に増える程に寝てないなら、自室で眠ればいい。
しかしこうして足しげく自分の元へ通ってくる相手の真意が理解出来ずに、白澤はもやもやを抱えていた。
愛される喜びを感じたいだけなら、もう少し元気なときにすればいい。
「まぁ、別にいいけどさ。食べる物何もないよ、今日桃タローくんいないし」
今日の花街に遊びに行く予定はキャンセルとなった。白澤は唇を結んで黙ってしまっている鬼から背を向ける。
腹を空かせた鬼に何か振る舞ってやろうかと考えていると、背後から唐突に抱き寄せられた。
「おいっ」
「食べるものなら、ここにあります」
「僕は食用じゃっ――んっ」
あっさりと顎を掬い取られて、鬼のかさついた唇が重なる。
鼻孔を漂ってくる地獄の匂いと煙管の残り香に、耳の奥で鼓動が跳ねた。
「ちょ、！」
店内でこのまま事に及ばれるのだけは勘弁してほしい。
抗議の声を上げようとして、逆に鬼の舌が咥内へと侵入してきた。
「んんぅ、ふ、――ぅ、っ」
静かな店内に反響する唾液が絡まる水音が、直接耳に届く。
懸命に白澤の舌を辿る鬼が、なぜか愛らしく見える。
舌を吸い上げられるたびに、背筋を甘い痺れが駆けていく。
「ふ、ぁっ、」
口付けは次第に深くなって、鬼灯の指が衣類の上を滑っていく。
いつの間にか三角巾も白衣も乱され、唇が離れる頃には白澤の息は上がっていた。
呼吸を整える間もなく、床に押し倒される。
「っ、待っ」
強かに打ち付けた肩の痛みを訴えようと、鬼灯を睨みつける。
しかし情欲に濡れた鬼の瞳に捕えられた瞬間、身動きが取れなくなった。
まるで獰猛な獣に見下ろされる草食動物の気分だった。
萎縮したと同時に、この朴念仁がはっきりと自分に欲情していると悟る。
それだけで気分が昂揚して身震いした。
再び鬼の武骨な手が胸板を這い出した時、白澤は静かに目を伏せた。
「んぁあっ――！」
驚く程艶のある声が反響する。
女性の淫らな声はいい興奮材料になるが、男の、しかも白澤の声を聞いても鬼は萎える事はない。
寧ろ一層強く性感帯を抉ってくるのだから、性質が悪い。
「やっ、ぁ、あっ、ふぁ――……」
鬼は言葉もなく、白澤を抱いた。
仰向けの体勢からうつ伏せにさせられても、執拗に楔を打ちつける。
尻だけを高々と突き出す様な体勢は、正直恥ずかしい。
しかし今の白澤には、羞恥心を感じるだけの余裕は微塵も残っていなかった。
「ま、っ――お願、待っ……ひぅ、も、やだぁ！」
鬼灯が一度達する間に、白澤は何度も果てた。
陰茎の先端から吐き出される液体はもはや無色になりつつある。
それでも鬼は、決して責めることをやめない。
「あっ、やだ……ぁあっ、待、そこ、やぁっ！」
猛々しい鬼の先端が、一点を狙い撃つ。そこを突かれるたびに、白澤は背をしならせ嬌声を上げる。
まるでそれを楽しむかのように、鬼灯はしつこく抉ってきた。
「いやではない、と把握しておりますが……」
「やだっ、も、イきたくな――ぁあっ」
与えられる快感が強くなれば強い程、それは苦痛以外になりえない。
髪も身体も呼吸も全てを乱され、与え続けられる悦楽の波から逃れようと床を爪で引っ掻く。
唯一身体を支えている腕や肘も、擦れて真っ赤になっていた。
途端、鬼灯に背後から抱き込まれる。白澤を満たすそれがいっそう深く入り込み、一瞬、呼吸が止まった。
「あっ、あ、あぁっ！ ふか、い、やだぁあ！」
「っ、あいして、おりますっ」
鬼灯は身体を背後から抱き寄せたまま、先ほどよりも腰を早く打ち付けてくる。
揺らいでいた快感の波が一気に押し寄せて、白澤は淫らな声を上げた。
「いやぁっ！ あぁっ、あっ、だめ、またっイっちゃっ――ぁああっ！！」
まるで白澤の絶頂を促すように、鬼が深く楔を穿った瞬間、ぱちんと意識が弾けた。
背中で鬼が息を詰めたと同時に、白澤の中に熱い奔流が流れ出す。それを最後に、白澤の意識は闇の中へと溶けていった。
居心地のいい微睡の中で、白澤は目を開ける。
どうやらあの後、自室に運ばれたらしい。すっかり夜も更け、部屋を照らす光は月明かりに変わっていた。
乱れていた衣類はどこにもなく、下穿きを履いたまま寝かされていた。布団の上には、鬼灯紋の施された着物が、一枚畳まれている。
「……アイツ、どこいったんだろ？」
汗と白濁まみれの身体は、いつの間にか綺麗になっていた。
鬼灯が眉間に皺を寄せながら、形を小奇麗にしてくれたのだと考えると少し笑える。
しかし肝心な鬼の姿は何処にも見当たらない。
白澤は鬼灯紋の着物を肩から羽織って、店の外へと出た。
「月が綺麗……」
柔らかな夜風が頬を撫で、淡い月光に照らされた桃源郷の夜は普段よりも輝いて見える。
白澤は店の裏手から人の気配がして、そちらへ足を向けた。
そこは、あの花の種を植えた小さな花壇がある場所だ。
「……お前から貰った花の種、全然咲かねぇよ」
花壇の前には案の定、鬼灯が佇んでいた。花壇に植えてある種は全て鬼灯が贈ってきたという確信があった。
「そうですか」
鬼は肯定も否定もせず、静かに目を伏せる。
白澤にはその答えだけで十分だった。
しばしの沈黙が二人に訪れる。常春の桃源郷の夜は過ごしやすいはずだが、今夜は幾分冷えるようだ。
白澤は肌寒さを感じて、着物を深く羽織り直した。
「白澤さん……」
「なんだよ？」
「貴方は、決して愛してるとは言いませんでしたね」
「は？」
「どうして貴方は愛してると、言ってくれないのですか？」
鬼灯の視線がこちらへ流れてくる。
澱みのある瞳を見た時、白澤の胸は妙にざわめいた。まるでそれに呼応するように、周辺の木々が大きく揺れる。
「花街の女性たちには、あれだけ簡単に"愛してる"と言うじゃありませんか」
「そりゃあ……僕は女の子たちをアイシテルからね」
「では、なぜ私にも同じように言ってくれないんですか？」
「ちょっと待てよ。論点がずれてる。お前は僕に愛されたいわけじゃないだろ」
鬼が求めたのは、愛される喜び。それがどんなモノか知りたいと教えを乞うから、教えた。白澤なりに愛情を持って、鬼灯と肌を重ねていた。それでは足りなかったのだろうか。
「愛される喜びってのは、言葉じゃないだろ」
「では、貴方は私を愛してないのですか？」
「僕は女の子にアイシテルとは言うけど、それはなんていうか……お前が求めるものとは違う気がする」
「貴方は誰にも、本気で愛してるなんて言ったことないのでしょうね」
鬼灯がどこか諦めにも似た自嘲的な声音で呟く。
「お前は僕に、愛してると言って欲しいの？」
「まぁ……言葉にされれば、より愛される喜びとやらを実感できるかと思いまして」
「――わかったよ……」
愛の言葉なんて花街の女性だけでなく、数多の女性に囁いてきた。
この鬼のように愛してると言って欲しいといわれれば、いつだってそれに答えてきた。
なのに――。
「僕は、お前を――っ」
続きの言葉を紡げない。言いたくないわけではなく、言えない。
まるで何かが喉につっかえた様に声が吐き出せない。白澤は喉もとに片手を宛がって、何度も"愛してる"と告げようと試みる。
「あ、あ……あぅ」
しかし唇から零れる言葉は音をなさず、吐息に混ざって溶けていく。
まるで全身が鬼灯へ愛を囁くことを拒絶しているような感覚に、白澤は溜息を吐いた。
「なんでだろ、言えない……」
「そんな無理して言葉を搾り出さずとも、いつもの調子で言えばいいでしょうに」
「いつもの調子？」
「女性に愛を囁くように、さらっと」
「さらっと、ねぇ……」
どんな場面でも女性の愛には真剣に答えてきた。
飄々とした態度を取る反面、愛されたいと願う女性には愛の言葉を囁いた。
それと同じ"アイシテル"でいいならば、鬼に答えてもいい。白澤の気まぐれだった。
この言葉を吐いたとき、鬼がどんな表情をするのか興味があった。
白澤は一つ息を吐き、頭を空にして言葉を滑らせた。
（こんな虚構でいいのなら）
「僕は、お前を……アイシテルよ」
社交辞令のようなアイシテルを囁いているとき、白澤の胸はまるで何かが抉られるような痛みを放っていた。言い終えても、なお激しい痛みを伴う胸を思わず両手で押さえる。
「なに、これ……ッ」
胸の奥深くで、これは違うと何かが叫んでいる。
こんな上滑りなだけの台詞を吐きたい訳じゃない。
この痛みは――なんだ？
「あのさ、僕は……」
再び鬼へ告げようと口を開いた。しかし、白澤の目の前を横切った白い何かに目を奪われる。真っ白な灰が、白澤の隣から風に乗って舞っていた。
「え……？」
さらさらと零れる灰を視線で追う。それは鬼の指先から放たれていた。正しくは鬼の指先が綺麗な灰になって空に舞っていく。
「ちょ、え？ 何！？」
突然の事態に思考が追いつかない。しかし隣に立ちつくしたままの鬼灯は、平然とした様子で灰になっていく身体を見下ろしていた。
「白澤さん」
「え、待って！ お前なんで」
「他者からの気持ちに鈍いだけでなく、自分の気持ちにも鈍かったようですねぇ」
「そ、んなこと言ってる場合じゃないだろ！！」
「今の貴方の表情、鏡で見たらいいですよ」
「何言って――っ！」
「なるほど……これが」
ざっと大きな風が吹いた。その風が鬼灯のすべてを攫っていこうとする。
「これが、愛される喜びなんですね……」
まるで存在そのものを消し去るように、鬼灯の身体は真っ白な灰になる。
白澤は徐に手を伸ばしてそれを掻き集めた。しかし鬼の身体はどんどん失われていく。
「私は、ずっと貴方を――待っていますよ、白澤さん」
吹きすさぶ風が、真っ白な灰になった鬼を天へ連れて上っていく。
さらさらと舞い散る灰が小さな花壇へと降り注いでいった。
そして――。
風のざわめきだけを残して、鬼の姿はどこにも見えなくなってしまった。
「どう、なって……」
白澤は呆然と地面に膝をつく。九つの目を全て酷使して、四方八方を視るが見当たらない。鬼の気配も匂いも、何も感じられなくなった。
「嘘だろ……なぁ！？ 冗談、だろ！！？」
白澤の頭に消滅の二文字が浮かぶ。古来より鬼の消滅は例がない。そのため、鬼灯が消滅したという確証はないが、白澤は冷静な判断力を失っていた。
「どっかに隠れてるんだろ！？ なぁ！！」
唐突に獣の姿に戻り、天を駆ける。
その日の夜、鬼灯紋の着流しを羽織った吉兆の神獣・白澤は朝になるまで地獄と桃源郷を駆け巡った。
しかし、一本角の鬼神の姿はどこにも見当たらなかった。
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